一度隠した指先を、再びゆっくりと出しながら、M田さんは話を続けた。
「ペルーのすべての場所が危ないわけではないです。でも、このリマでの外出は、我慢してください。時々、『汚いかっこうをしていれば大丈夫だろう?』と仰る方もいらっしゃいますが、それもだめです。スリや強盗は、身なりでターゲットを決めるのではなくて、ホテルから出てくるところを狙っています。被害者にとって事件は突然起こるものですが、犯人は、計画的なんです。出口でずっと見張っていて、出て来てからついて歩く。人目につかないところで、1人のところを狙われます。」
キリッと、きっぱりと注意を促した。静まったところで、さらに付け加えた。
「私の被害も、彼らにとっては計画的だったと思います。危険な通りだから人が少ない。信号で待っていても、他に人がいないのです。赤信号でタクシーが止まる。乗客は非力な女性。絶好のチャンスだと思われたに違いありません。おかしな言い方ですが、スリや引ったくりは、本当のプロなんですよ。」
ペルーに来るお客さんは、ある程度旅慣れている方が多い。「旅人」として、しっかりとしたプライドをお持ちの方もいて、時々扱いにくい時もある。でも、この時のM田さんの実体験に基づいた案内は、かなり効果的だった。
「あなたはペルーに来て何年目ですか?」
不意に、年配の女性客がたずねた。
「11年目です。」
「(驚いて)その若さで!?」
「はい。・・・・いろいろありました。それはまたあとでお話します。」
ホテルに入って、夕食時間を案内をして、お客様にはお部屋にお入りいただいた。このホテルには、日本人女性がいた。いわゆる移民だった。最初は従業員かと思ったが、
「私は支配人です。創業したのは父ですが、今では私が全てを任されています。」
へー・・・。僕は、ほとんど旅行の現場しか知らないが、ペルーでは、ガイドや旅行会社以外でも活躍している日本人は多いと聞いた。
「現地事情を心得ている日本の方ですから、防犯管理もしっかりしてますよ。」
M田さんが太鼓判を押した。
「M田さん、治安のことは言ってくれた?」
支配人が尋ねた。
「はい、もちろん。」
M田さんがこたえると、支配人は僕にホテルの防犯について教えてくれた。
「こんな静かなところでも、観光客が狙われることはあります。今日はみなさん、おつかれでしょうから出歩かないとは思いますが、くれぐれも気を付けるように、ディナーの時にもう一度仰ってください。」
「わかりました。」
「それと、このホテルは、外側の鉄柵に常時鍵をかけていますが、日没後は、内側からも合鍵がないと開きませんからご注意ください。つまり、お客様は、敷地外には勝手に出られません。防犯の一環です。」
リマは、本当に治安が悪いらしい。いつも宿泊する度に、似たようなことを言われていた気がする。
この日の仕事は終了のM田さんは、これでご帰宅だ。
「今日は、いろいろありがとうございます。本当に勉強になりました。」
僕は、素直に、心からお礼を言った。彼女はニヤリと笑って、
「これですか?」
と言って、右手の人差し指の傷を見せた。
目の前に持ってくると、本当に痛々しい。M田さんの手は、指が細く、長く、美しかったから、余計にそう感じた。
「いや・・・別にそれだけじゃなくて・・・。でも、確かにあの案内は効果的でした。『危ない、危ない』と言うだけでなく、実体験で、しかもその証拠が体に残っていて、見せられたら、とても説得力がありました。タイミング的にもよかったです。今日の観光中は、そういう心配がないところばかりだったから、『スリとひったくりに気を付けて』と言うだけ。心配なホテルチェックイン後の単独行動に備えて注意喚起。あれなら、お客様が、いつ本当に注意すべきか分かりやすい。完璧です。」
「ありがとうございます。でも、一番この傷にビビッていたのはツートンさんですよ。」
「・・・嘘!?」
「本当ですよ。一番心配ない人が一番ビビってるんだもん。笑いそうになりましたよ。」
「一番間近で見ていたからですよ。」
「あははは。そういうことにしておきましょう。」
「あの、失礼ですけど、・・・さっきのタクシーの強盗事件とその傷の話は、本当のことですよね?」
「もちろん!どうしてそんなことを聞くんですか?」
「添乗員でも、はったりで、人の経験を自分の経験のように言う人っているから。」
「あ、なるほどね。私の場合は本当です。」
「ふーん・・・そんな怖い思いをした話をよくできるなあ、とも思ったんです。」
女性は、恐怖体験をすると、そのトラウマが男性よりも遥かに深く記憶に刻み込まれるという話を、どこかで聞いたことがある。実際に、日常会話でもそう感じることはある。
「確かに怖かったですよ。しばらくの間は、思い出すのも嫌でした。でも、言わざるを得ない時があったのです。」
「どういうことですか?」
「今は、マチュピチュブームで、初めての海外旅行がペルーだという人も出てきましたが、ちょっと前までは、ずいぶんと旅慣れたお客さんばかりだったんです。私が何言っても舐められたんです。今日も、私がこちらに住んで何年か聞いてきたお客さんがいたでしょう?」
「いましたね。明らかに何かを探る聞き方でした。」
「私くらいの見た目だと(若造という意味で)、何年住んでいるとかが、お客さんにとっては、一種の「当たり外れ」になるらしいです。『その程度の居住期間なら、大してこの国のことを知らないだろ?』ってことをはっきり言われたことがあります。添乗員さんでも、そんなことってあるでしょう?」
「まあね。」
「そんな私が、どんな注意喚起をしても、誰も真面目に聞いてくれなかったんです。『そんなこと、お前よりも俺たちのほうが知っているよ』みたいな感じで。その時に、この傷のことを話したら、とてもみなさんが真面目に話を聞いてくれて。それ以来、必ず治安の話をする時は、これを見せています。」
ガイドさんも、信頼を得るまでは本当に大変なんだな、とつくづく感じた。「若い頃は、一部のお客様から舐められたり小馬鹿にされたと」という女性添乗員の話は、この頃はよく聞いた。
「この傷の話で、みなさんが気を付けてくださるなら、全然問題ありません。今日、一番ビビってたのはツートンさんですけど。」
「だからそれは・・・」
「いやー、あんなじーっと見られたら、また傷口が開くと思って隠してしまいました。すいません。あ、でも、私の案内は、傷の話で終わりではありませんよ。他にもいろいろ経験してるから、楽しみにしててください。自分の経験以外でも、ネタはたくさんありますから!」
確かに、彼女にはいろいろあった。それを聞けるのは、アンデスから帰って、もう少し、僕らが打ち解け
てからのことである。