登場人物
N美
自分が、これまでしてきたことを、まだ信じ切れていない。どれほどの実力を蓄えたかを実感できずにいる若手添乗員。
マスター・ツートン
この頃から、しばらくの間は、わりと思った通りに物事が思い通りに進んだ、マスター(教官)であり、自称天使の添乗員
フランスのトレーニングは、しっかりとやった。バス移動が長いフランスは、参加者がバスの中で時間を持て余してしまうことが多く、そこを楽しませるのが、添乗員の腕の見せ所だ。
簡単に言えば、バスの中で、いかにネタ(もちろんフランスにまつわる)を上手に話すかが勝負どころだ。観光案内は、それほど難しくない。勉強は必要だが、見た目に華やかなものが多く、基本的な説明だけで十分に満足できるし、細かい説明が必要な観光施設ではガイドがつく。
だが、観光地をつなぐバス移動中は、ガイドがつかない。これまでN美は、初心者用のツアーで、移動中にガイドさんがつかないツアーを経験していたが、今度のD社は派遣元にとってメイン取引先のひとつ。きちんとしたトーク技術が必要だ。
車内案内までガイドがしてくれるトルコなど、スルーガイド付きツアーばかりを担当してきたN美にとっては、キャリアアップするための大事なツアーだった。派遣元での信頼を得るという意味では、「優秀添乗員」がかかったトルコツアーよりも重要だったかもしれない。
僕は、フランスツアーのトレーニング前に、ネタを3つ完成させてくるよう宿題を出した。だいぶ苦労したようだが、きちんと完成させたネタを、順調に披露してくれたので安心したのを覚えている。残りのネタは、僕が提供した。
当時のN美には、漢字に弱いという大きな欠点があったが、それは同時に読書が苦手であることも意味していた。たまに、バスの中で、本をそのまま読む添乗員がいるらしいが、僕は、N美に限っては、それを禁じた。あまりひどい漢字の読み間違えは、お客様からの信用を落とす。
その分、トークは鍛えた。読書が苦手だから、前もって資料を貸しても「難しい」と読んでもらえないことがあった。僕にしてみれば、資料というよりも読み物程度のものでも、そう言われた。
そのうち、最初は読めなくても、前もって内容を説明してから読ませると頭に入ることが分かった。また、読むのではなく、聞くだけなら、読み物以上の内容でも頭に入ることも分かった。僕は、ネタをを用いたトークの手本を、N美のiPhoneに録音させて、その内容を徹底的に話せるように訓練した。
今でも、N美のiPhoneには、僕が提供したバスネタが、僕の生声トークで録音されている。(派遣元を移籍する時には、他に一切もらさず消去する約束だったが、移籍する前に嫁に行ってしまった。)
一度、頭に入ると言葉がポンポン出てくるようにはなっていた。N美を教え始めたときに掲げていたテーマのひとつ「脳と口をつなげる」作業は、成功しつつあった。
D社のフランスツアーでは、そこそこの結果を出した。とびぬけた結果ではなかったが、参加者は満足していた。
そして、満を持してトルコだ。ちなみに、このトルコの前は、なんのトレーニングもしなかった。無理をすれば、スケジュールを合わせることができたが、僕自身も忙しかったし、繁忙期の中、他にレクチャーを必要としている人がたくさんいた。この時は、マネージャーからの依頼もあり、それを優先したのだった。
というよりも、そろそろN美も、ひとりで勝負すべき時が来ていた。しかも、散々行っているトルコだ。慣れているだけでなく、現地事情も十分に把握していた。これまでどおりの結果を出せば、確実に「優秀添乗員」になれる。
少し不安そうにしている彼女を突き放しながら、「絶対に目標を達成しろよ」と、励ましと言う名のプレッシャーをかけて送り出した。自分ができるようになったことを自覚させるのも、トレーニングの一環だ。
思っていたとおり、N美は数値をクリアした。たまたまA社での報告日がN美と一緒だった僕は、結果が出たその場で祝福した。
「おめでとう。」
「・・・いやー・・・プレッシャーでした。こんなのもう嫌だ。もっと気楽に仕事をしたいです。」
「こら。弟子がそんなこと言うな。」
「すみません。・・・でも、毎回このプレッシャーはつらいです。」
「達成感はまったくない?」
「・・・今は特に実感ありません。」
「でも、ギャラは上がるよ。」
「え?」
優秀添乗員には利点がある。パンフレットに「この出発日には、優秀添乗員が同行」と表記してある仕事をもらえれば、優秀添乗員手当が出るしくみになっていた。
派遣元の給与体系にもいろいろある。日当や時給から派遣手数料を引くのは当たり前だが、その割合は会社によって違う。そのほかの手当については、半分差し引いたり、せこい派遣元だと三分の二を取ってしまうところもある。僕らの派遣元は、そのあたりは良心的で、日当、時給以外の手当については、すべてそのまま添乗員に支給された。N美のこの時のランクであれば、一日1500円が支給される。
「もし、優秀添乗員の8日間ツアーが、月に二本入ったとして・・・1,500円×8日間×2本だと・・・24,000円、毎月今のギャラにプラスになるよ。仮に10日間のツアーが二本入ったら、プラス30,000円だよ。これって大きくないか?」
「・・・大きい。すごい。」
まだ、添乗員ランキングが低く、基本的なギャラが安いN美にとって、この手当は大きかった。
「達成感出てきた?プレッシャーに打ち勝った結果がこれだからね。胸を張れよ。」
「はい。・・・・なんか急に達成感が出てきました!」
文字通り、現金な発言をしたN美だったが、これを機会に、いつもびびりながらだった仕事が、より前向きなものに変わっていった。金銭的なご褒美はモチベーションを高める。まずは、最初の覚醒だった。
次回、覚醒その2の前夜。
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ヘルシンキで見かけた、ある集合住宅での蔦の紅葉。2019年9月の頭頃