マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ

自称天使の添乗員マスター・ツートンの体験記。旅先の様々な経験、人間模様などを書いていきます。

February 2021

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

これまでの登場人物は、上の①をご覧ください

 

この日の朝7時15分。思川は、レストランが開く少し前に朝食へ向かった。

ビュッフェの朝食は、特に集合時間を設けず各自でとってもらうことになっているが、彼女は必ずレストランが開く前に赴き、早くから来ている客に挨拶するようにしていた。特に意味もこだわりもない。最初に勤務した五大陸旅行社で、そう教育されて習慣になっていただけだった。

駒形は、朝一番でレストランに行くことはなかった。そのせいか、「朝食の係は思川さん」だと勝手に思っていた客もいた。

開店時間前のレストラン傍で、彼女は、一人の男性客から声をかけられた。

「実は、朝起きたら妻が、お腹をくだしちゃってね。熱はないんだけど、朝食は控えるって。観光はどうしようか迷っているんだ。」

「あら、それはいけませんね。ちょっと様子を見せてください。」

真面目で誠実な思川は、ご主人と一緒に客の部屋へ向かった。夫人の様子はひどくはないが、観光を楽しめる状態ではないように思えたので、とりあえず、午前中は部屋で休んでもらうようにした。その後、レストランに戻る途中、たまたま手前で会った二人の客に下痢や吐き気の症状があることを相談された。

「こんなに一度に似たような症状が、たくさんの人に起こるものなの?」

不審に思った思川は、最後に訪問した女性客の部屋から、駒形の部屋に電話をかけたが出ない。仕方なく、今度は携帯で連絡を取ろうとしたが、

「あ、部屋に置いて来ちゃったんだ。」

朝食を終えて、すぐに戻ろうと思っていた彼女は、昨晩、忘れていた携帯の充電を、この時にしていた。一度、階下にエレベーターで下りて、レストランに行ったが、そこでも駒形には会えなかった。

「まあ、いいか。医者がいつ来れるかだけでも、先にレセプションに問い合わせておこう。」

そう思って、上階のレセプションに向かうと、そこに駒形がいた。

 

「あ!」

「あ!おはよう。」

「お客さんが体調を崩して大変なことに・・・」

「具合が悪くて観光に行けないお客さんがいて・・・」

お互いに、自分の言いたいことを優先して会話が始まらない。

「駒形さん、お先にどうぞ。」

お姉さん格の思川が先に譲った。彼女は、自分が把握している客の現状だけでも、事を深刻に受け止めていたが、駒形の話を聞くと、強い動揺を露わにした。彼から聞いたお客さんの様子のほうがより深刻だったからだ。

「え?高崎様はそんなにひどいの?」

「嘔吐が床に広がっている様子をもろに見たから、その印象が強烈なのかもしれない。夜中に5回吐いたというくらいだから、体力的には弱っているかな・・・。」

「医者はすぐに手配できるかしら?」

駒形は、時計を見た。この日の観光出発予定は845分。時刻は、8時20分になっていた。二人は医師がいつ来れるか確認するようにレセプションデスクに頼み、一度部屋に帰って、荷物だけを取って、すぐ集合場所にやってきた。

客が集合する前に、イスカンダルとハーディーもやってきた。二人とも思川からの報告に驚いて、いつも陽気な彼らの顔が真剣な顔つきになった。

「少なくとも、今、診察を希望されてる方が2名様。今後、増える可能性があります。いえ、間違いなく増えるでしょう。医師の診察には、誰か帯同すべきだけど、ハーディーたちは観光案内があるから、私か駒形君が残ることになる・・・・・・。だとすると、ツアー担当の私かな、残るのは。」

少し自信がなさそうに言った思川に、駒形がきっぱりと提案した。

「いや、診察には僕が帯同する。」

「どうして?」

否定された思川が、少し不機嫌な顔で理由を求めた。

「診察に立ち会ったら、大半の方は英語でコミュニケーションを取れないから、僕らが、ある程度の通訳をしないといけない。そうなったら、診察だけに集中しないといけなくなる。」

「うん。それで?」

「患者対応と同時に、日本に連絡を入れたほうがいい。」

駒形は、自分の考えを余すことなく説明した。

この日はルクソールに停泊しているクルーズ船にもう一泊する。次の日からは空路でカイロへ移動して近郊のギザで二泊だ。それからロンドンに一泊してから帰国する。帰国が視野に入った状態で、このトラブルだ。移動が絡む時に、体調不良が原因で、ご一緒できない参加客が出てくるかもしれない。

その場合の入院先、滞在ホテル、別移動する客の航空券手配、その際に日本語を話せる現地の案内人をつけられるかどうか、ある程度の行動パターンを考えながら、航空機の空席状況を確かめておく必要がある。動き方を決めた時に、空きがなかったら二度手間になり、効率が悪い。

このような大きなトラブルになると、現場の添乗員の判断と裁量だけではどうにもならない。詳細は後にしても、現地で起こっていることを前もって日本サイドに伝えて、できる準備からしてもらう必要があった。添乗員は、それから参加客のケアを徹底して行い、それをまた、いちいち日本に報告して、道筋を整えていく。

こんな時、物事がスムーズに運ぶ時は、客からは見えないだけで、必ず日本にいるスタッフの活躍がある。

 

この辺りの判断力は、この時点では、思川より駒形のほうが上だった。

思川は、五大陸旅行社で、三年の勤務経験があったが、その時は添乗と顧客へのセールスしか経験していなかった。派遣添乗員を経てファースト・クラストラベルに入ったが、企画担当者としては、まだ一年半のキャリアしかない。

駒形は、添乗経験こそ、やや思川に劣るものの、リッチ&コンフォートツアーで10年間勤務経験があり、そのキャリアの中で、入社4年目以降は、主に企画担当として働いた。自分が担当しているコースが、現地でトラブルに遭い、何度か対応に追われたこともある。担当者としての経験不足が原因で判断ミスをしたこともあれば、時には、

「あの時、もう少し早く添乗員が連絡してくれていればどうにかなったのに・・・」

と、添乗員に対して恨みに近い感情を抱いたこともあった。

彼は、この手のトラブルにおいて、日本にいるスタッフとの連携を、早く始めるほど有利になると分かっていたし、その重要性が骨身にしみていた。

「観光案内はガイドの仕事だ。添乗員は、最後尾からついていくだけだよ。バスの中では人数確認だけだ。その間に、日本に電話連絡できる時間はたくさんある。だから思川さんが観光についていくべきだ。指示を受ける側の僕は、船でお客さんのケアに集中する。」

三人が頷いた。

また、同じ観光地で重ならないように、二つのグループは別々の動きをする予定だったが、

「同じ動きにしたほうがいい。今は大丈夫でも、また体調を崩す方が出てくるかもしれない。その時、二台バスがあれば、体調の悪いお客様だけを乗せて帰って来れる。」

次々と効果的な意見を出した。

一度にこれほどの参加客が体調を崩すのは、かなり大きなトラブルだ。しかし、それでも駒形が、「帰国」までの道筋を、一瞬で考えた中で、ひとつだけ前向きになれる材料があった。

「大丈夫だ。今回は四人いる。」

この現場に添乗員ひとりで対応するとしたら困難を極める。だが、今は、作業を分割できるスタッフが四人いる。まずはこのマンパワーを、有効に使うことだ。数々の修羅場をくぐってきた駒形は落ち着いていた。

もう一人の添乗員が思川というのも幸運だった。この現場の責任者は彼女だ。もし、彼女が、こんな時に正社員と派遣社員との立場の違いにこだわるような人間だったら、素直に駒形の言うことを聞き入れなかったかもしれない。実際、駒形の言い方は、少々雇われ添乗員の立場を超えている部分があった。

しかし、思川は気にしない。真面目で、凛とした雰囲気の彼女は、その言動から、プライドが高いと思われがちだが、実はそれほどでもない。彼女が一番強く持ち合わせているのは、「正義感」だ。特に現場では、顧客のために、何が正しいかを一番に考える思川は、駒形の正しさをすぐに受け入れた。

「そうね。それで行きましょう。午前中の様子で、また午後のことは考えます。ハーディー、いつも私がやっていることまで、現場でやらせてしまうかもしれないけど、その時はお願いします。イスカンダル、2グループが一緒に動くと言っても、大きなグループに見えないよう、ある程度の距離はとるように気を付けて。大人数になると、お客さんのストレスが溜まります。お互いの姿が見えればいいから。なにかあったら、大声を出すよりも携帯を鳴らしてください。そして駒形君、体調の悪い方のケアをよろしくお願いします。」

動きは決まった。この時点では最良の配置だった。

 

観光出発五分前。客たちが集まってきた頃、思川が駒形に指示を出した。

「出発前は点呼を取って。今日は人数確認だけじゃだめ。私たちに欠席を知らせることができた人はいいけど、部屋で動けない人がいるかもしれない。」

思川の心配は、的中した。

「僕のグループは、一人確認できない。」

「誰?」

「韮山様・・・」

「あ、昨日、一番最初にお腹の調子を崩した人!」

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ナイル川クルーズ中に見られる夕日



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足利市内の両崖山頂にあった御嶽神社。今回の山火事で全焼してしまった。
無人の神社であったが、古くからあり、地元でハイキングをする人からは親しまれていた。
僕も、帰省した時は、よく登っていた。ここでコロナの収束を何度お願いしたことか。
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同時に燃えてしまったと思われる、周辺の景色も紹介しておこう。
たった数日で、それも山火事が原因で、緑豊かな、こんなに美しいところが失われてしまった。
僕の実家は市街地だが、歩いていける距離に、こんなところがあるということに、とても有り難みを感じていた。
今回の山火事は、本当に悲しい。

これが人為的なもの、或いは火の不始末などによる過ちであるならば、その人には、一生十字架を背負って生きて欲しい。
山での火の扱いには、本当に気をつけよう。

どうか、はやく鎮火するように。
せめてもの救いは、怪我人病人が出ていないことです。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

これまでの登場人物は、上の①をご覧ください。

 

新たな登場人物

 

大平夫妻

ファーストクラス・トラベルの上顧客。ご主人は、とある企業の役員。60代前半。

 

岩舟母娘

母娘でツアーに参加。娘はこの旅行会社のツアーに初参加。母親の夫は、地元の有力医師。母親は60になったばかり。娘は二十歳代半ば。大学院生。

 

韮山

ファースト・クラストラベルのツアー初参加。男性の一人参加客。50代後半。

 

※このシリーズに限り、登場人物は、すべて設定されたものです。全て実在しません。
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アブシンベル滞在中に眺めたナセル湖の夕景。山も樹木もない砂漠では、空が広い。その表情が、すべて湖に反映される。まるで空の鏡。

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ノックに応えて、すぐに夫人がドアを開けた。駒形の顔を見ると、ほっとしたような顔を見せた。そのあと、すぐにご主人がバスルームから顔を出した。なぜか歯を磨いている。

「大丈夫だよ、大丈夫。」

と、歯を磨きながら、口をもごもごさせて言った。駒形は、夫人の導きで部屋に入る時、ドアを閉める際に、岩舟に「大丈夫」という合図をした。

「誰か、外にいるの?」

夫人が尋ねてきた。

「隣の部屋のお客様・・・思川のグループの方です。奥様の叫び声が聞こえたようです。」

「あら・・・申し訳なかったわ。ご挨拶したほうがいいかしら。」

その時、隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。岩舟が部屋に戻ったようだ。

「また、呼び出すのもなんだし、夜遅いですから。挨拶は、次の日でいいでしょう。」

と駒形に助言されて、夫人はそうすることにした。

大平夫妻の部屋は、船内でも三つしかないジュニアスイートルームを利用していた。そのまま奥の部屋に通されてソファに座り、駒形は夫人の話を聞き始めた。

「主人がね、ベッドから立とうとして急に倒れたの・・・。呂律がまわらなくなって、よだれがたくさん出始めて・・・。」

バスルームでは、「ぺっぺっ」と、口から唾液を吐きだすような音がずっと聞こえた。歯を磨いているだけにしては、確かに不自然だった。

「大丈夫なわけないの・・・お願い・・・助けて・・・。」

やがて、ご主人が出てきた。

「大丈夫、大丈夫。」

確かに呂律がまわっていない。話しながら、よだれが口元に垂れた。それを拭きながら、懸命に説明を始めた。

「妻が寝てからも、ベッドであぐらをかいてて本を読んでいてね・・・立ち上がろうとしたら、足がしびれてて・・・倒れちゃったんだ。その時にベッドの縁に頭をぶつけちゃって・・・。」

「ずっと倒れてたじゃない・・・。」

夫人が指摘した。

「大丈夫。ちょっと脳震盪みたいになったけどね・・・。頭もはっきりしてきた。」

彼が言う通り、話せば話すほど普通になってきた。

「まあ、誰でもびっくりするだろうね。でも、大丈夫。本当に大丈夫だから・・・。」

念のため、ぶつけたところを見せてもらった。外傷はなにもない。小さなコブさえなかった。それだけで全てを判断できるとも思わなかったが、夫人の様子も落ち着いてきたし、駒形は部屋に戻ることにした。

「本当に大丈夫なのね?」と、夫人がご主人に何度も確認して彼が頷くと、彼女は、胸に手を当てて、うつむきながら、大きく深呼吸した。懸命に心を落ち着かせているようだった。

「ご迷惑おかけしました。」

「いえ、何かあったら、またすぐにお呼びください。」

 

大丈夫と言われても、駒形の心に多少の不安は残った。夜中にそんなことがあると、どうしても寝つきが悪くなるものだ。部屋に戻り、ベッドに入ってからも眠っては起きて、また眠って・・・これを繰り返し、完全に疲れが取れないまま、次の日の朝を迎えた。

この日の午前中は、「王家の谷」と「ハトシェプスト女王の葬祭殿」の観光が予定されていた。朝7時半。船のレストランが開くのと同時に駒形は朝食に向かった。まずは、大平夫妻のことを思川に報告だ。

だが、いつも彼よりも早く朝食会場にいる彼女は、この日に限ってまだ来ていない。

 

やがて、岩舟母が姿を現した。いつも母娘いっしょなのに、この朝は母親だけだった。駒形は、昨晩のお礼をして、大平夫妻の状況を説明した。間もなく、大平夫人が現れたので、岩舟に紹介して、ご挨拶をしていただいた。岩舟は、自分の部屋の隣で大変なことが起きなかったことに、ほっとした。

話を終えると、大平は、駒形のところにやってきて、深々と頭を下げた。

「昨晩は、本当にご迷惑おかけしました。」

社会的に立派な地位にある夫婦だが、「添乗員に対して、この方たちほど丁寧に接してくださる方はいないだろう。」と駒形が思うほど礼儀正しい。だが、体調は良くなさそうだ。目の下にクマができている。

「お休みになってないんですか?」

「わかる?(苦笑)なんだか落ち着かなくなっちゃって、全然眠れなかったの。すっかり寝不足だわ。」

寝不足だけの顔色の悪さとも思えなかった。そういえば、ご主人の姿が見えない。

「あの、ご主人は?」

「まだ部屋にいます。ルームサービスでパンと果物と卵料理だけ持ってきてくださるように手配いただけないかしら。今日は、主人には観光を休んでもらいます。あんな脳震盪を起こした後に、観光は心配だから。」

「かしこまりました。朝食は、すぐに手配いたします。・・・奥様も休まれますか?」

「私は行きます。ここはね、主人が一番楽しみにしていたところなの。せめて、写真をたくさん撮ってきて見せてあげなくちゃ。」

大平夫妻は、この旅行会社では単に上顧客というだけでなく、有名なオシドリ夫婦だった。お互いがお互いに優しく、それこそまわりの誰もがうらやむほどだった。夫人の態度に心を打たれて、駒形は彼女を止めきれなかった。

「また思川さんに、女性に甘いって叱られるかな・・・」

そんなことを考えながら、駒形は大平夫妻の部屋に、朝食のルームサービスをオーダーした。この時の決断を、後々後悔するとも知らずに。

 

それから大平と一緒にビュッフェを取りに行って、席について食事を始めようとした。

「思川さん、まだ来ないな。」

彼女のことを気にしながら食べ始めてすぐに、

「駒形さん!駒形さん!!」

と、女性客が、レストラン入口から彼に向かって走ってきた。思川のグループの客で、夫婦で参加している高崎の妻だった。

「急いで部屋に来て!主人が大変なことになっちゃって・・・!!思川さんが部屋にも、どこにもいないから・・・お願い!早く!!」

駒形は、トマトをひと切れ食べただけで席を立ち、高崎夫妻の部屋に急いだ。

「これ!これを見て!!」

高崎夫人は、部屋に入るなり、すぐにバスルームを見せた。次の瞬間、駒形は絶句した。洗面所の床に、嘔吐物が広がっている。床全体に広がったそれは、ただごとではない異臭を放っていた。

「あの・・・これは・・・ご主人が?」

「そう。吐き気を催して、トイレに行ったんだけど、間に合わなかったの・・・。」

ただの嘔吐ではない。どう見ても血が混ざっているような色だった。

「血を吐いた・・・?え?」長年添乗員をしていれば、体調を崩して嘔吐をされるお客様くらいは見たことがある。だが、これまでとはどう見ても別物だ。

高崎夫妻は、前の日の夜まで元気だった。ダンスショーにも参加して、ノリノリで楽しんでいた。それを考えると、この状況は俄かには信じ難かった。

「夜中の三時くらいに目が覚めて・・・急に吐き気がして・・・(溜息)それから5回吐きました・・・。」

ご主人は、ゆっくりとかろうじて、それだけ話した。

「5回ですか・・・。」

駒形は、嘔吐物をすぐに処理しようと思ったが、ためらった。いつか、何かで読んだことを思い出したのだ。乗り物酔いなどの時は別として、患者の嘔吐には、むやみに触れてはいけない。感染症の疑いがある場合、嘔吐物や血液には要注意であること。

彼の躊躇した態度を見て、婦人が、少し腹を立てた。

「なによ。別にあなたにそんなこと頼んでません。私が自分で拭きます。」

作業に取り掛かろうとする婦人をを、駒形は素早く止めた。

「だめです。船のスタッフにまかせましょう。嘔吐物や血液にはむやみに触ってはいけないと教わったことがあります。」

高崎夫人は、彼の意図をすぐに理解したらしく、すぐに手を止めた。

頼んだホテルスタッフは、手慣れた様子で、両手に手袋をして、モップを用いて速やかに嘔吐物を処理して、床の消毒を行った。素人にはできない作業だった。

「少々お待ちください。」

駒形は、高崎夫妻の部屋の電話を借りて、思川の部屋にかけた。しかし出ない。所持している会社携帯でも連絡を試みたが、やはり出なかった。仕方ないから、彼女への報告は後だ。

「高崎様、医者に診てもらいましょう。ただちに手配いたします。」

夫妻は、医者の手配ができるということで、少し安心した。決して軽い症状ではないので、夫人も観光を休んで、ご主人に付き添うことになった。

 

一度、高崎夫妻の部屋を出て、駒形はロビーに急いだ。途中、階段で、彼のグループの福居夫妻の夫人にお会いした。元々か弱そうな女性だが、この時は、本当に倒れそうになりながら、力を振り絞って「あの・・・」と声をかけてきた。急いではいたが、かろうじてその動きを見逃すことなく、駒形は足を止めた。

「どうかなさいましたか?」

「あの、明け方から主人が下痢して、4時半くらいから今まで、全然止まらないのです・・・もう、7、8回はしていると思います。今日の観光は、参加できません、私もなんか胸やけがひどくて・・・。」

また・・・!?でも、まだ動揺は一瞬に、駒形は冷静に対応した。

「今、他の方が体調不良で、お医者様を呼ぶところです。福居様もお部屋でお待ちください。」

 

ロビーに降りた。医者の手配を頼もうとしたその時だった。階下から、思川が上がってきた。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください。

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 ナイル川のクルーズ船。ヨーロッパで見られるリバークルーズ船に比べると、かなり船体が高い。(本文と船は関係ありません)
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暗くなると、他のクルーズ船は、夜景の一部になる。
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ナイル川クルーズに使われる客船は、ヨーロッパのリバークルーズ船に比べると、船体が高くつくられている。あちこちに橋がかかり、その下をくぐらなければならないヨーロッパの川事情と違って、橋が殆どない(あってもとてつもなく高くつくられている)ナイル川では、背の高い造りでも航行可能なのだ。そのため、デッキに上がると、遠くまでよく眺められる。

イギリスの保護国であった影響だろうか。エジプトのホテルや船では、イギリス文化の影響を時々見られる。例えば、クルーズ船では、夕方にアフターヌーンティータイムが設けられている。

夕方の四時頃、きつい日差しが柔らかくなった頃に始まるサービスには、ほとんどの乗客が顔を出した。紅茶はティーバッグだし、ケーキもそれほど特別なものではないが、船の上からナイル河畔のゆったりとした動きを眺めながら楽しむティータイムは、とても優雅に感じる。

駒形は、開始時間からある程度のツアー客を案内してからは、自分も楽しんでいた。時々客のところに足を運んで軽い案内をしたりする。

「ごらんください。緑が豊かに見えて、ちょっと遠くに目をやると砂漠が広がっていますね。古くからナイルの川沿いだけには緑地帯と農地が広がって、人々の生活を支えていました。航空写真を見ると、緑が広がっている川が一本のロープのように伸びています。文字通り命綱ですね。『エジプトはナイルの賜物』を実感できます。」

客が感心しているから、駒形は得意げだ。実は、エジプトに来るたびに案内している必殺文句だ。ガイドの姿が見えない時は、こんな風景の説明をすることもある。

「今日も楽しそうですねえ、添乗員さん。」

少し遅れて思川が現れた。

「今、すっかりお客さんの中に同化してたわよ。というかお客さんよりも楽しんでいるように見えた。ツタンカーメンのことを思い出したわ。」

「そんなことないよ。」

「ちゃんと仕事していることは分かってるけど・・・気を付けてね。」

「なにを?」

「女性のお客さんだけでなく、男性陣にも気を遣って。」

「ちゃんとやってるよ。」

「さっき、私のグループの男性のお客さんに言われたわよ。売店で買い物している時に助けを求めたのに、冷たくされたって。女性のお客さんばかりに甘いって。」

「・・・・・・・・嘘?」

「本当です。女性客のほうが数は多いから、なんとなくサービスが女性優先になるのは分かるけど、つまらないクレームはもらわないでね。」

「・・・はい。」

 

駒形にそんなつもりがないことは分かっている。ファーストクラス・トラベルの「マダムな顧客」たちは、添乗員に対して、とても甘え上手で褒め上手だ。駒形は、そんなマダムたちの甘い声と褒め言葉に、乗せられているように見えた。優しいというより、甘いのだ。

客の要望には、本当に必要なものと、我儘系がある。クルーズ船に乗ってから、マダムたちのちょっとした我儘系のご要望は、すべて駒形に行き、思川のところには一切来なかった。

「お客さんもよく見てるよなあ。確かに、私ならお断りするようなものは、みんな彼のところにいく。」

船に乗ってから、ずっと思っていた。

そのため、彼に注意を促した。お客さんが彼のところばかりに行くという嫉妬ではない。さっきの男性客が、「駒形は、女性ばかりに甘い」などとアンケートに書いてしまうと、管理職の印象が悪い。そうなると仕事が減る可能性がある。女性が多い添乗員市場で、駒形のような男性は貴重だ。

彼は、自分が楽しんでいるように見える時はあるが、案内は丁寧だ。

女性客にうまく扱われて甘いところはあるが、優しい。

いちいち喋りたがりでうるさいことがあるが、説明はうまい。

気になるところは多々あったが、添乗員としての能力は確かだった。いや、ここは彼女の気持ちを素直に書いておこう。これからも、ファースト・クラストラベルのツアーを依頼したいと思っていた。だから、つまらないクレームで、上からの評価を下げたくなかった。

 

「そういえば、さっきお腹の調子が悪いといっていた韮山さんのことだけど・・・あの男性の一人客の。」

わざわざ「男性」を強調した言い方に、思川は笑いそうになったがこらえた。

「ああ、レセプションに行って薬もらったの?」

「いや、ちょうどイスカンダルに鉢合わせて・・・いつものアドバイスをもらった。」

「まさか、あれ?」

 

レセプションで、スタッフと談笑していたイスカンダルは、韮山の話を聞くと、アドバイスを始めた。

「エジプトでお腹の調子を悪くしたら簡単ね。エジプトコーヒー(トルココーヒーと同じ)にレモンを搾って飲んでください。そして、底にたまっているコーヒーのかすまで全部食べる。日本の薬より効きますよ。エジプト人は、みんなこうやって下痢を直します。ちょっと苦いですが、日本でも言うでしょ?人生は苦いって!」

お腹の調子が悪いはずの韮山が、思わず笑いだすほどの調子のよさだった。

この案内を、よくエジプトのガイドはする。駒形も思川も、来るたびにいろいろなガイドから聞かされていたが、それを実行した客のお腹の調子は、劇的によくなっていた。科学的エビデンスは提示されたことはなかったが、「みんなよくなる」という状況的エビデンスを実際に目にしていた。

「あれ、私たちからは絶対におすすめできないよね。」

「できないねー。自分じゃ絶対にやらないし。韮山さんは実行してたよ。一生懸命コーヒーのかすを食べてた。」

「うげー・・・でも、実際にあれで回復する人多いからね。薬は飲んだの?」

「いや。飲んでない。外国で外国の薬は飲みたくないって。慎重だよね。」

ちなみに、添乗員が客にお願いされても、薬はお渡ししない。医療行為となり、法律にふれてしまうからだ。

 

たった一人の参加客が、多少お腹の調子を悪くしても、いつものことだ。当の韮山も、この時はそれほど気にせず、他の参加者とともにティータイムを楽しんでいた。

悠久のナイルの流れと、その周りの風景は、だんだん赤く染まってきた。そのまま暗くなるまでデッキで楽しむ客、一度自分の部屋に帰る客。それからディナータイム、ベリーダンスショーと、ゆったりとした時間の流れの中で、楽しい時を過ごした。

ショーが終わってから、ホールはバーラウンジとして開放された。ヨーロッパやアメリカから来た乗客、日本人、ガイドや添乗員まで、誰もがグラスを片手に飲み物と会話を楽しんでいた。

少しずつ、部屋に帰ろうとする乗客が目立ち始めた時、韮山が駒形のところにやってきた。

「さっき、ガイドさんに教えてもらった特効薬(コーヒーのかす)・・・今のところ効いてないみたいだ。さっきよりひどくなった。」

「あら、そうですか。いつもはよく効くのですが。どうしましょう。船の薬は気が進まないということでしたら・・・医者を呼びますか?」

「え?医者はいるの?」

医師がいるという情報は、前もって全参加者に知らせていたが、韮山は聞き逃していたようだ。

「いますよ。すぐにでも呼べます。そうしますか?」

「いや、もう遅いからいいや。今晩様子を見て、明日の朝ひどくなっていたら頼むよ。」

「かしこまりました。」

念のため、韮山の状態は、思川やガイドたちと共有して、駒形は部屋に戻った。

 

騒がしかった船内は、だんだん静かになっていく。最終目的地のルクソールに向けて、夜のナイル川を進んでいた。

 

深夜0時。すっかり静まり返った船内。誰もが夢の中にいるこの時間帯に、駒形の部屋の電話が鳴った。添乗員たるもの、どんな時でも電話には素早く反応するものだ。すぐに目を覚まして、受話器を取った。その瞬間、韮山のことが頭をよぎった。

「はい。駒形です。」

「早く!早く飛んできてー!!おねが――――い!!!」

叫び声は、駒形の耳を突き抜けて暗闇を引き裂いた電話の主は、韮山ではない。別の客だった。

「落ち着いてください。すぐにまいります!その声は、大平さんですか?」

「そうです!早く来て!主人が・・・主人があ!!!」

電話を切った駒形は、部屋着用の長そでTシャツを着て、短パンはそのまま。サンダルをつっかけて、2階上の大平の部屋に走った。部屋の前に行くと、別の部屋のツアー客が、大平の部屋の前に立っていた。

思川のグループの客だ。岩舟という女性で、娘と二人でツアーに参加していた。60歳とは思えない若さと美貌を誇るこの方は、地方の有力医師を夫に持つマダムだった。ネグリジェにカーディガンを羽織って、不安そうな表情で駒形に声をかけてきた。

「こちらの部屋の方に呼び出されたの?」

「・・・はい。」

「私たち、この隣の部屋なのね・・・。さっき、奥様のものすごい叫び声が聞こえてきたの。2回も・・・それで心配で・・・。」

彼女は、心配というよりも恐怖におびえた表情で、大平の部屋を振り返った。

「あの・・・ひょっとして、ご主人が亡くなったんじゃないかしら・・・。」

駒形の背中に、ゾッとする何かが走った。

「まさか・・・。」

急に高まる嫌な緊張を抑えようとしながら、大平の部屋をノックした。

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広い川幅には、何隻ものクルーズ船が同時にクルーズしている。
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水門近くで、通過の順番待ちをしていると、ボートが寄ってくる。Tシャツを持っており、クルーズ客に販売している。値段は交渉次第。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください

 

このホテルの寝室はコテージタイプ。レストランから部屋に帰る時は、一度外に出て敷地内を歩いていく。昼間は温かく、ショーが終わるころは涼しいくらいだったのに、夜は肌寒い。日本では考えられない寒暖の差。こんな時、自分が砂漠の中にいるということを思い知る。

ほんの少し寒さに震えながら、思川は笑いが止まらなかった。

「いいなあ・・・あんな姫扱いされたのは久しぶりだ。たまにはいいもんだ。」

声に出してクスッと笑って空を見上げると、満点の星空だった。

部屋に戻ると、急にWIFIの電波が入った。それとともに、LINEのメッセージがまとめて来た。ロビーだけで利用可能ということであったが、その近くに位置している思川の部屋は、時々気まぐれでつながった。

夫から労いのメッセージが入っていた。添乗中は、毎日メッセージをくれる。結婚して10年近くになるというのにラブラブだ。

「毎日くれなくてもいいのに。嬉しいけどね。」

ひとりごとを言いながら、「OK」という文字が入った軽めのスタンプを送った。嬉しかったが、眠くて面倒だったので、スタンプひとつで済ませた。

「日本は明け方か。どうせ夫もねてるしね・・・あ、みんな来てる!」

今度は、添乗員仲間のグループLINEに皆が来ているところを見つけた。メンバー四人のうち、他の三人は、フランス、ギリシャ、チュニジアで仕事をしていた。エジプトを含む四か国は、一時間以内の時差にあり、お互いに迷惑をかけずにコミュニケーションをとることができる。

思川も、すぐにそこに加わった。楽しい女子トーク。多少眠くても、こちらは面倒くさくなかった。

ムカつくお客さんの愚痴、毎晩自分を口説こうとしてくるドライバーが大変だという愚痴(自慢?)、彼氏が欲しいという愚痴、内容はともかく、何もかも楽しい。

「(チュニジアの)マトマタのホテルがぼろでさー、私の部屋お湯が出なかったのよ。シャワーを浴びることができなくて気持ち悪かった。さっき浴びて生き返ったよー!」

「私も、今回のツアー行程きつくて、一日終わって部屋に帰るとなにもする気起きないのよ。おかげで二日間風呂入ってないよ。今日こそ絶対に入る。」

「それわかる・・・」

「わかっちゃだめでしょ!風呂ぐらい入りなよ!今すぐ入ってこい!」

どうでもいい、くだらない、でも最高に楽しいやりとりに、思川は声を出して笑った。そうしているうちに、突然WIFI電波が入らなくなった。

女同士の話はやはり楽しかった。

「姫扱いも楽しいけどねー・・・。ガイド二人が男なら、もうひとりの添乗員は女のほうがやりやすかったな。・・・まあ、みんないい人だからいいか。」

シャワーを浴びた。砂漠の乾燥のせいで、バサバサになった髪と肌の手入れを済ませた。「美人」の自覚があり、客の前での清潔感を大切にする思川は、どんなに疲れていても、風呂には入るし、こぎれいにすることを怠らない。

ベッドに入り、夫からのLINEをもう一度開いた。スタンプに、まだ既読はついていない。シンプル過ぎる返信スタンプを、少し反省した彼女は、メッセージを付け加えた。「いつも心配してくれてありがとう。ツアーは順調です。たぶん、このまま無事に帰れると思います。」

「なんか・・・いい日だったような気がする・・・。」

リラックスした彼女は、エジプトに来て、初めて深い眠りについた。ツアーの成功を、なんとなく確信していた。

 

その頃、男三人は、まだレストランで盛り上がっていた。

思川という華が立ち去った後、わずかな間おとなしくなったが、ガイド二人と添乗員一人だ。話すことが仕事でもある彼らが、ずっと黙っていられるはずもなかった。

「あれ?ハーディーは?」

駒形が、デザートを取りに行っている間に、いつの間にか彼は席を外していた。

「あっちにいる。」

イスカンダルが、コーヒーを飲みながら遠くのほうを指差した。ハーディーは、別の日本人グループのところで愛嬌を振りまいていた。遅い飛行機で到着した彼らは、駒形たちの後に一般のショーを鑑賞して、それからディナーをとっていた。

「以前、一緒したお客さんでもいるのかな?ずいぶんと楽しそうだ。」

「いや、そうじゃなないよ。あれは大阪から来たグループだって。」

「大阪?」

「そう。あいつは大阪で日本語を学んだからね。たまには大阪弁を話したくて仕方ないんだってさ。変な奴だよ。」

ほどなくして、ハーディーは帰ってきた。

「ふー・・・。少しは楽しめたな。」

「少し?ずいぶんと楽しそうだったけど。」

「いや、大阪出発でも、あのグループは神戸と京都の人が多かった。大阪の言葉は、あまり聞けなかった。」

「だめなの?」

「僕は、大阪で日本語を学んだから。やっぱりちょっと違うよね。せっかく覚えたから、大阪の言葉も忘れたくない。」

日本語を流暢に話すだけでもすごいと思うのに、そこまでこだわるハーディーに言葉が出なかった駒形を見て、イスカンダルが笑いながら言った。

「ね?変だろ?こいつ、おかしいんだよ。」

ハーディーの表情がムキになった。

「なに言ってるんだ、イスカンダル!お前だって、変じゃないか!なんだよ、『日本メーカーのメイド・イン・チャイナは最高』って!」

「それは本当のことだよ。日本で買う電気製品には、メーカーが日本でも中国製か台湾製がたくさんある。それ以外でも、日本で買うメイド・イン・チャイナは最高だよ。中国製のいいものは、日本にたくさん行ってるよ。日本人も、それは知ってる。」

確かにそういう一面はある。

「それに比べて、エジプトのメイド・イン・チャイナはひどいんだ・・・。この前、カイロの市場で中国製の目覚まし時計を買ったんだ。すぐに使ったんだけど、朝起きたら止まってたよ。一晩でもう壊れてた。時計屋に持って行っても直せなかった。一度も鳴らないで壊れる目覚まし時計って考えられる?日本では、そんなもの見たことないよ。」

こんな感じで、話がころころ変わっていく。

イスカンダルと駒形は、一緒に仕事をしたことがあった。このツアーが始まる前から、日程表でお互いの名前を見て、これが再会ツアーであることも分かっていた。それを知っていて、ハーディーがふざけた。

「駒形さん、イスカンダルはね、あなたが添乗員でラッキーと喜んでいたんだよ。とてもお客さん思いで、ガイドに対しても優しいし協力的だと。でもね・・・」

「おいバカ、やめろよ。」

イスカンダルが止めようとした。

「でも、思川さんを空港で見たら、『俺、あの女性がいい!』って言いだしたんだ。それから毎日添乗員を交換しようってうるさいんだよ。」

イスカンダルが苦笑しながら言い訳している。

「冗談だよ!あの人きれいだったから、ついそう言っただけだよ。本気で言ったんじゃない。」

駒形は、笑ってはいたが、少し傷ついた。精一杯の強がりで

「僕は交換してもかまわないけど。」

と言ったが、

「それはだめだ。僕も思川さんがいい。」

と、冗談めかしながらハーディーに切り返されて、また傷つくはめになったのだった。

彼らは、添乗員が2人がその場にいる時は、絶対に日本語で会話をした。添乗員が理解できないアラビア語を目の前で話すことで、疑心暗鬼を生まないという点でも、徹底していた。

ずっと喋り続けるハーディー。夜11時を過ぎて、

「なあ、僕はもう眠いよ。いいかげん寝ようよ。」

と、イスカンダルが言ってくれたことでようやくお開きになった。

日程三日目にして、特別貸し切り観光を、無事に二つこなした夜。三人もまた、思川と同じように、ツアーがうまくいくことを確信していた。だから、こんなにリラックスして、夜の会議ができたのだった。

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翌日、航空機でアスワンに移動して、市内の観光を楽しんだ後、いよいよクルーズ船に乗り込んだ。

その瞬間、ガイドや添乗員の負担は、ぐっと軽くなる。船での移動には、バス移動のように渋滞がない。時間管理を細かくすることなく、寄港地の到着時間に合わせて観光をするだけだ。ナイル川沿いの観光地は、港から近く、歩いていけるところもある。思川にも心配事もなくなり、表情はだんだん明るくなっていった。

 

この時のクルーズは、特に順調だった。

ツアー客は、最高に楽しい時間を過ごして、船は最後の寄港地ルクソールに向かっていた。

そんな日の夕方、一人の男性客が、駒形に声をかけてきた。

「すみません。ちょっとお腹の調子が悪いのですが・・・」

「そうですか。私は薬を持ち合わせていないので、船のスタッフに問い合わせてみましょう。」

エジプトというお国柄、31人もお客さんがいれば、一人くらいはお腹の調子をおかしくするものだ。これくらいは、いつものことだった。

駒形は、いつも通りに対応した。いつも通りに。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください。

 

ツアー客たちの様子が落ち着いても、思川はビュッフェを取りに行こうとしなかった。

「食事はきちんと取ったほうがいいよ。」

と、駒形が声をかけたが反応しない。

「どうしたの?そんなに行程チェックが好きなの?」

「ごはん食べようよ。病気になっちゃうよー。」

と、イスカンダルとハーディーが、陽気に話しかけても書面から目を離さない。

仕方なく、3人で食事を取りに行こうとした時、ようやく3人のほうを向いた。

「駒形君、お願い。スープだけ取って来て。食欲がわかないけど、それだけいただくわ。」

「わかった。」

駒形は、彼女の社内における事情は知らなかったが、現地に赴いている企画担当の緊張感は理解していた。こればかりは、周りの人間がいくら気の利いた言葉をかけても、本人が、実戦をこなしてプレッシャーを乗り越えながら、慣れていくしかない。無駄な作業も気休めのうちだ。「せめて、美味しいスープだけでも取ってきてあげよう」と、列ができているスープカウンターに並んだ。

 

何度読んでも変わることがない日程表と手元の資料に目を通す。もはやチェックをしているかも分からない、文字に目を通しているかさえあやしくなってきた思川の鼻に、とてもいい匂いがしたと思ったら、皿をテーブルに置く音がした。顔をあげてみると、イスカンダルとハーディーが、爽やかな笑顔で立っている。

「食べやすいものを取って来たよ。このチキンの煮込み料理、美味しいよ。とても柔らかい。」

「このビーフシチュー、最高だよ。ソースが最高。食べたら食欲出てくるよ。」

空腹を実感していなかった思川だったが、美味しそうな料理に、つい手が伸びた。

「・・・美味しい・・・やだ、なにこれ、美味しい!」

最初、口にしたチキンの煮込みも、ビーフシチューの肉も、口の中でとろけて、あっという間に胃袋に落ちていった。

「・・・私、お腹すいていたのかな。」

呟くように言った思川に、二人は優しく言葉をかけた。

「当たり前だよ。あれだけ動いたらお腹すくよ。」

「そうそう。せっかく美味しいものがあるのだから食べなきゃ。体が持たないよ。」

「二人ともありがとう。」

 

「葉月ちゃん(思川の名前)になにかあったら、僕は、どうしていいか分からないよ!」

「え!?イスカンダルは、なにをしていいか分からないだけなのか?僕は葉月ちゃんになにかあったら・・・なにかあったら、死ぬしかないよ!」

「なに言ってんのよ、バカ!」

思川は、口に手を当てて笑い出した。二人の優しさが、とても嬉しかった。

一般的に、エジプトの男性ガイドは、他のイスラム圏のガイドに比べると、女性への接し方は垢ぬけており、だいぶ紳士的だ。だから女性添乗員をチヤホヤするのも上手だ。(たまに下心が丸見えなのもいて注意が必要な時もある)

美人な思川は、大学生の頃モテモテで、チヤホヤされるのが大好きだった。結婚して、30代後半になり、そんなことはすっかりなくなっていたが、イスカンダルとハーディーの優しさのおかげで、久しぶりに若い時のようにはしゃいでいた。

イスカンダルたちも楽しんでいた。日本人は、アラブ系に比べると若く見える。思川は、キリっとした態度の美人だが、童顔だからなお若く見えて、30歳そこそこにしか見えなかった。とても30代後半には思えない。男たちにとって、美人のおもてなしは楽しかった。

 

スープカウンターの列に並んでおり、一足遅くテーブルに戻った駒形は、盛り上がる三人を見て、少し前で立ち止まった。

「あれ?思川さん食べてる?スープだけでいいって言ったのに・・・。あ、ハーディーたちが食べられそうなものを持ってきたのか。しまったなあ・・・。」

「いらない」と言われても、とりあえずなにかしら持ってくるという気の利かせ方を、駒形は自然にすることができなかった。添乗で仕事モードに入ると、いろいろ思い付くのだが、オフになった瞬間、途端に気が利かなくなるところがあった。

ハーディーとイスカンダルが、「とりあえず気を利かせて」持ってきた料理を、彼女は美味しそうに食べている。スープだけしか持ってこなかった自分が、急に恥ずかしくなった。いや、自分なりに気を遣ってはいたのだ。スープは三種類あり、全部味見をして、思川が一番好みそうな野菜のポタージュスープを選んだ。それに合いそうな、柔らかいパンも選んできた。

 

プライベートで添乗員同士で飲むことが時々あるが、いつしか駒形は、女性添乗員たちからいじられるキャラクターになっていた。仕事では一目置かれていたものの、女性の前での立ち振る舞いは垢ぬけておらず、「優しさが足りない」、「一言足りない」、「女心の読みが甘い」など、好き放題言われて気にしていた。思川とは、このエジプトツアーまで、ほとんど接点がなかったが、「何か言われるのではないか」

と、気になった。飲み会の時は、からかわれながら淡々と話しを聞いていたり、笑っていたりしていたが、実は、けっこう傷ついて、多少トラウマのようになっていた。

思川が駒形に気付いた。笑顔満面で手を振って

「駒形君!それ、スープ?ありがとう!!早く持ってきてー。」

思っていたのと真逆の反応に、駒形は面食らった。

「少しでもお腹に何か入れたほうがいいと思って、パンも持ってきたけど、いる?」

「おお!ありがとう!気が利くねえ!!」

気が利く・・・久しぶりに言われた誉め言葉が、心に響いた。この一言で一週間は過ごせる気がした。

 

若い頃、チヤホヤされ続けた思川は、そのコツを心得ていた。相手がなにかしてくれた時は、それが自分にとってどうでもいいことでも、望んでいないことでも、笑顔の「ありがとう」だけは絶対に欠かさなかった。そうすることで、周りも幸せになるということを、本能的に知っているだけでなく、自然と言動に出る根っからの「姫」だった。

 

雰囲気が明るくなったテーブルは、楽しい会話で盛り上がり、思川が、再び仕事の資料を広げることはなかった。

ほっとしたのだろうか。思川を急に睡魔が襲ってきた。

 

「今日はありがとう。先に休ませて。おやすみなさい。」

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください。

 

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朝陽に当たって赤く染まるアブシンベル神殿

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陽の光は神殿入り口から入り込み、内部を幻想的に照らす

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夜は、くっきりと彫刻が浮かび上がるライトアップ。

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そこで行われる音と光のショーは、エジプトで一番。神殿がナセル湖に水没しないよう、移動させるための途方もない作業、ラムセス二世と王妃ネフェルタリの愛、ヒッタイトとの攻防を、神殿の壁いっぱいをスクリーンにして上映される。映像の中心をよく見ると、彫刻部分が分かるが、それによっていかに大規模なものかが分かる。

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ナセル湖畔に佇むホテルグランド・ナセル。カイロの次に宿泊したのは、水辺のリゾートホテルだった。

午後7時半。ディナーのテーブルについた思川は、楽しそうにビュッフェを取りに行くツアー客を見つめながらホッとしていた。

「一番の山は越えたかな。」

この日の日没直後、ファーストクラス・トラベルのツアーでは、二つ目の特別観光が実施された。アブシンベル神殿の音と光のショーの貸し切り鑑賞だ。この日、二回行われるショーのうちの一回を丸ごと買い取った。世界遺産の神殿で、圧倒的なショーを楽しんだ後だけあって、参加者の雰囲気は上々だ。

「あとはクルーズさえうまくいけば。まあ、それは大丈夫ね。通常手配の通常観光だもの。でも、音と光のショーが、あんなに素晴らしいなんて・・・」

 

「アブシンベルの音と光のショーって、貸し切りにする意味あるの?あれって席に座って観るものだろ?人が多くても問題ないと思うのだけど。考古学博物館の貸し切りのようなお得感があるのかな。」

ショーに出発する前のミーティングが終わった時、駒形がお気楽に無責任な質問をした。

「それは・・・」

反論しようとした思川には、気が利いた言葉が思い浮かばなかった。彼女も実際に鑑賞するのは初めてだったし、企画の段階で貸し切り鑑賞にしたのも、「ファーストクラス」の名にふさわしい「貸し切り専用」というプレミアムをつけたいだけが理由だった。分かりやすく言えば、「パンフレットの見栄えがよくなるように」するための手段だった。セールス上、「限定」と「貸し切り」は、ツアー価格に関係なく、ひじょうに効果的なのだ。

元々企画畑出身の駒形には、それが分かっいたので、「たかだかパンフレットのために、無駄な予算を使っている」ように思えた。

「貸し切りは意味があるよ。」

と、思川の劣勢を跳ね返したのは、彼女のグループのガイドであるハーディーだった。

「貸し切りにすると、ショーの音声を日本語で聞けるんだ。」

「え?貸し切りでなくても、イヤホンで日本語を聞けるんだろ?」

「分かってないなあ、駒形さんは。このショー、見たことないだろ?今までエジプトで、音と光のショーは見たことある?」

「あるよ。ギザのピラミッドとカルナック神殿で。」

「ぜーんぜん違うから。アブシンベルのを見たら、他のはもう子供の遊びだから。」

「子供の遊び・・・」

 

実際に観て、駒形は貸し切り鑑賞の意味を理解した。

神殿の壁いっぱいに広がる映像と音楽は、プロジェクションマッピングに近い。貸し切りでない時は、観客が多国籍になる。その場合は、居合わせる中で、一番多くの人が母国語にしているものが、音声で会場に流されて、それ以外の人々は、イヤホンを配布されて、それぞれの言語で鑑賞する。

確かに、会場内に流れる音声を聞くのと、イヤホンから聞き取るのとでは迫力が違う。多国籍観客になったら、場内音声に日本語が選ばれる確率は低い。貸し切りにした甲斐はあった。

 

「ほらあ、貸し切りの価値はあったろ?」

イスカンダルが、得意げにいった。

「観たことないくせに、偉そうなこと言うたらあかんよ。」

大阪で日本語を学んだハーディーが、関西弁を混ぜて続いた。

「プロの添乗員は、人のところの企画に文句をつけないで、仕事をこなさいとダメよね。」

と、最後は思川が、とどめを刺した。

駒形は、三人からの攻撃に、さっさと白旗をあげた。余計なことを言ってしまった気持ちよりも、「良いものを観た」という感動のほうが大きく、その余韻に浸っていた。

 

「でもね・・・あんなすごいものを貸し切りにしたのはいいけど・・・たった31人なんだよね。」

それまで満足そうにしていた思川が、急に沈んだような表情になった。

このエジプトツアーは、本来、もう少し規模が大きいもののはずだった。思川たちは、前々日に成田から出発したが、それと同日に、もうひとつ、羽田出発のグループも設定されていた。

また、その一週間前には、やはり成田から二グループ、羽田から一グループの出発を予定していた。それぞれのグループの定員は16人。それが6グループ。このイベントツアーの定員は、合計96人にも上った。

一週間前に出発するはずだった3グループと、思川たちが案内している後発グループは、行程が逆回りに組まれていた。先発組の最終目的地はカイロに設定されており、最初の目的地をカイロに設定していた思川たちの後発組と、国立考古学博物館で顔を合わせて、全グループで貸し切り観光をする予定だったのだ。

実際、ツアーの売れ行きは好調で、設定された6つのグループは、一時的にすべて満席となった。そのままの状態が続けば、考古学博物館は96人の参加客でゆったりと観光して(この人数でも十分にゆったり観光できる)、それと同時に「盛り上がっているファーストクラス・トラベル」を演出できるはずだった。

 

だが、悲劇が起こった。出発の一か月前にカイロ市内でテロが発生したのだ。職場や一般社会において、高い地位にいることが多いファーストクラス・トラベルの参加者は、テロや災害に敏感だ。本人が参加しようとしても、家族をはじめとした周辺の人間が、キャンセルするように説得することが多い。

このテロが原因で、日本外務省は、特にエジプトへの渡航を制限しなかった。そのため、旅行会社は、そのまま参加するように申込者を促したが、キャンセルの波はおさまらなかった。一人、また一人と日を追うごとに落ちていった。

航空機はビジネスクラスで、デラックスホテルとデラックスカテゴリーのクルーズ船、おまけに特別貸し切り観光を2つも含むなど、贅を尽くしたツアー価格は100万円を超えている。約款上、出発前30日を切ってからのキャンセル料は20%になる。つまり、20万円ものキャンセル料を払ってでも、キャンセルを申し出た人が60人を超えた。信じられない数字だが、こういうケースでは、高額商品ほどキャンセル率が高い。決して企画担当者の責任ではないのだが、思川は胸を痛めた。

当初の予定通り、6グループが2つの日程に別れて出発すれば、思川は、添乗員としてではなく、コーディネーターとしてエジプトへやってきて、現場でいろいろ仕切る予定だった。30代後半の、中途採用プランナーに割り当てられるはずだった最初の晴れ舞台は、テロの銃声が鳴り響くとともに消えた。

たった二つのグループになってしまったイベントツアーに、コーディネーターは派遣できない。それでも、手配されているものが、現地でどのようになっているのか勉強させるため、ファーストクラス・トラベルは、添乗員として思川をエジプトに行かせることにした。

「国立考古学博物館とアブシンベルのショーの貸し切り手配は、当社では初めてだ。現地できちんとよく見てくるように。君が見てきたことが、来年のノウハウになるんだ。頼むよ。」

思川は、その言葉を「中途採用の自分を育ててくれている」と、素直に受け取った。だからこそ、このツアーにかける思いは強かった。

 

ディナーのテーブルで、思川は、またツアーの日程を広げてチェックをし始めた。大イベントはもう終わっている。彼女の、心の中の事情を把握していない駒形には、神経質で無駄な作業に思えた。

 


余談だが、テロが原因でツアーが取りやめになることは、イスラム圏においてはよくある。エジプトも同様だが、他に比べてマーケットが極端に大きいエジプトが、このようになると旅行会社への打撃は深刻だ。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください。

 

「それもあるかな。・・・いや、それが一番かな。なんか懲りた。添乗の結果だけで評価される今の仕事は分かりやすい。派遣元ともいい関係を築けてるし。」

思川の顔を見て、余計な突っ込みを避けたかった駒形は、素直に答えた。だが、彼女は容赦ない。

「ちょっと聞きにくいこと聞いていい?」

「・・・いやだ。」

「収入はどうなの?減ってないの?」

「いやだと言ったのに意味なし・・・。最初のうちは、ずいぶんと下がったよ。派遣元の中でのバランスもあるからね。最初から、ギャラのいい仕事ばかりもらえるわけじゃなかった。今はそうだなあ。たぶん、あのままリッチ&コンフォートに勤務していても変わらない給料か、ちょっといいくらいかな。」

「え?リッチ&コンフォートって、けっこう給料いいじゃん。それと同じくらいって・・・本当?」

「かなり必死にやっているからね。年間230日以上を添乗に出ているから、体の酷使は旅行時代より今のほうが激しい。」

「うげー!230日って私にはありえない。」

「でも、心は、今のほうが全然解放されている。束縛されているプレッシャーが、必ずしも労働時間に比例しないことも学んだよ。」

「そういうことよね・・・。ねえ、言いにくいこといっていい?」

「いやだ。」

今度は、きっぱりと拒絶したつもりだった。

「私ね、旅行会社の社員から添乗員に転向する人って、旅行業務が嫌で逃げ出した人だと思ってた。」

「それって、言いにくいよりも、言ってはいけないことじゃないか?」

駒形の牽制にたじろぐことなく、思川はたたみかけた。

「添乗員て、社員の責任ある立場から、お気楽なハケンに逃げた人たちの集まりだと思ってた。」

「そういう人もいる。僕に関しては、そう思われたくないから頑張れたというのもある。・・・でも、僕の前で言うことか?」

駒形は、不機嫌な顔を露わにした。

「違う違う!気を悪くしたらごめん。」

「なにが違うんだよ。」

「私がそうだったの。旅行会社から逃げたの。」

「え?」

思川の前職は派遣添乗員だが、その前は五大陸旅行社の社員だった。

「リッチ&コンフォートは、若いうちから企画をまかされることがあったんでしょう?私のところは違ったの。年間の半分以上は海外添乗。日本にいる時は、ひたすらお客様のところにセールスコール。空いた時間に企画のアシスト。営業ノルマはないようであったし、なによりも添乗員アンケートのチェックが厳しくて。・・・それを乗り越えて、社歴を重ねて30歳くらいにならないと企画をできなかったの。」

「思川さんて、アンケート結果よかったよね?うちのマネージャーは絶賛してたよ。」

「どんなによくても、粗探しをして『指導』してくるのよ。それに、添乗という仕事は、人によって得意不得意が極端でしょ?苦手な人への仕打ちがあまりにもひどくて・・・。」

「仕打ち?なにそれ?」

「お客様から、時々クレーム・・・あの会社では『お叱りのお手紙』って言ってたけど、それが来ると、偉い人からの事情聴取があったの。きつい尋問よ。その後、終礼の時に、部長クラスの人が、社員全員の前でそれを読み上げるのよ。添乗員が誰かも暴露して、『このような指摘をいただく者は、当社の添乗員にふさわしくない!』で締めるの。」

「うっわ!怖すぎるでしょ、それ。というか、今なら許されないよね。」

「当時でも許されなかったわよ。」

険しい表情で、一瞬言葉を止めた後、思川は続けた。少し息が荒くなっていた。

「社員の心情的には許されなかった。上は、見せしめた上で、引き締めるつもりだったんだろうけど、完全な個人攻撃よ。あれで、どれだけ社員が恐怖感を感じるかなんて、考えていなかったのよ。ターゲットになった子は、生贄よ、生贄!」

まるで自分がそういう目に遭うかのような物の言い方で、彼女は嘆いた。

「思川さんが、生贄になりそうなところなんて想像できないけど・・・。それでも怖かったの?」

「いつ、どんなことで自分がターゲットになるか分からないじゃん!絶対にいやだよ、あんな公開処刑。」

それが理由で、彼女は派遣添乗員に転身した。添乗は好きだったのだ。内勤と違い、帰国と同時に責任から解放される仕事では、五大陸旅行社時代のような、理不尽なプレッシャーに悩まされることがなく、平和な日々を送ることができた。

「でも、派遣はしょせんハケンだなって。駒形君みたいに、プロフェッショナルを志す意識が生まれるまではいかなかった。」

「は?じゅうぶんプロフェッショナルだったと思うけど。」

駒形は、自分よりも思川のほうが、添乗員の実力としては、一枚上手という認識があった。少なくとも、アンケートの集計では、彼女のほうが上だということは知っていた。

「いざという時には、ツアーを選んでたから。スケジュールも絶対に無理をしなかったしね。あなたみたいに、なんでもかんでも引き受けたわけじゃない。」

思川は、駒形と逆で、常に自分のことを過小評価した。また、臆病な面もあった。「石橋を叩いて渡る」タイプではあったが、本当に慎重な時には「石橋を叩いて渡らない」こともあったし、時には「石橋に近づかない」ことさえあった。自分でもそれを分かっていて、少々の我儘を自覚しながらツアーを選んでいた。

そのため、自分を評価する言葉も慎重だ。アンケートの高評価についても「ツアーを選ばせてもらえたから取れた」と言うのが思川だ。同じ状況でも、駒形なら「ツアーを選んで取った」と言うだろう。一度仕事に出れば、高い責任感を持って、なにがなんでもこなすのだが、その前の段階において「困難に立ち向かう」タイプではなかった。

「派遣でいる限り、きっと私は一生ハケンだ。自分から責任ある場所には飛び込めない。このまま歳を重ねていったら、なにも得られないと気づいたの。だから、ファーストクラス・トラベルのオファーを受けた。旅行会社の社員なら、責任ある仕事をやらざるを得ない。社風を見たら、五大陸のような個人攻撃も公開処刑もないと面接で聞いたし、安心して挑戦できると思ったの。」

 

彼女の過去を聞きながら、「転職にもいろいろあるな」と、駒形は感じていた。

思川は、駒形の転身に対する見方を変えていた。正社員から派遣社員への転身を、これまで「逃げ」としか思っていなかったが、彼のようにプロフェッショナルを意識していれば、それが「ステップアップ」にもなり得ることを知った。 

 

30を過ぎると、いろいろな過去があるもんだ・・・」

 

それぞれにグラスを傾けながら、二人とも同じことを考えていた。二人は、かつては同僚同士ではあったが、忘年会でもない限り、一緒に飲んで話したことは、ほとんどなかった。少なくとも、お互いのことを赤裸々に話したのは、初めてだった。

 

自分のことを話す時は、気づかないうちに結構なエネルギーを使っているものだ。

喉が渇いた。一杯だけで終わらせようとしていた駒形は、気分を変えてビールをおかわりした。

夜も多くの車が行きかうカイロの街は、騒音が響き渡っているはずなのに、三十階のバーからは、静かな、光があちこちで動いている、夜景が美しい都会だった。

「ラムセス二世というバーの名前っていいよね。そう思わない?」

まるで、「これから君をくどくよ」くらいの口調で駒形が言った。

「どうして?」

思川が「なにがあったの?」という口調で返した。

「もし、21世紀に彼がいたら、自分だけしか入れない場所をこういうところに作ると思う。案外、このバーの名前も、そういうイメージでつくったのかもしれないよ。」

「・・・そうかもしれないけど、あなたがその顔で言っても、説得力に欠ける。」

そう言って、思川は、クスクス笑い出した。

「だめだよ駒形君、そういうのを、こういうところで言っていいのは、キムタクとか福山みたいな人種だけだよ。あはははは」

本当は、そこまでからかうほど滑稽でもなかったのだが、自分のことを話過ぎた照れくささを隠すため、ノリでそう言うしかなかった。

 

この時、思川にとって、大切なエジプト企画ツアーが、思わぬ方向に進んでいってしまうことを、まだ誰も知らない。


※文中のエピソードは、すべてストーリー中の設定です。また、観光施設以外の名称も、すべて架空のものです。

ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog) ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

登場人物は、上の①をご覧ください。

 

「自分が唯一勝てるところが、海外旅行の現場だと思ったんだ。」

「勝てるところ?」

駒形は、大学を卒業してすぐ、海外専門の旅行会社「リッチ&コンフォートツアー」に就職した。現場を仕切る添乗と、内勤の企画・手配が完全分業制になっている会社が大半を占める中、両方の業務をこなすことができる数少ない会社だった。入社後は、決して抜群ではなかったが、添乗も企画もそれなりにこなして充実した日々を送っていた。

しかし、楽しい日々は、永遠には続かない。社会人になれば、誰でも一度は経験する人間関係が立ちはだかった。仕事に対しては前向きではあったが、二十歳代の頃の彼は、頑固な部分も持ち合わせていた。また、少々生意気で、目上の人間から反感を買うことも少なくなく、それを協調性に欠けると評価されていた。

それでも、顧客からの添乗員としての評価は高く、企画に関してもセンスは並以上で、主張することは正しいことが多かった。入社した当初の上司は、とても育て上手な人間だったので、彼の言葉がうまくツアーや売り上げという形になるような指導をして、それなりに育て上げた。

だが、入社四年目から従えた二人目の上司とは全く馬が合わず、ことごとく対立した。ある意味、最初の上司に気に入られて甘やかされていた部分が、ここでは悪いほうに働いた。

それまで、自分のアイディアの大半が、何かしらの形でツアーになり、それなりに売れて結果が出ていたうえ、それが、優しい上司が気を遣って育ててくれた結果ということにも気づいていなかった。つまり、自分の能力を過信していた。そのため、意見が合わない新しい上司のアドバイスを受け入れることができず、その姿は、周りから傲慢に映った。

会社の商品には、大シリーズとイベント物、そして単発ツアーがあり、前者2つが花形商品だったが、駒形は、ついに、そこから完全に外された。そこから奮起して、単発ツアーの企画では、かなりの実績を残したが、それでも、花形ツアープロジェクトのメンバー入りを告げられることはなかった。

一度、フランスのとある宮殿で、500人を集客して、特別観光とディナーパーティーを催す一大イベント企画があり、コースを立案・提出した。9コースを選定される会議の中で、駒形の企画は2本採用されたが、いざ、プロジェクトが動き出すと、2本ともツアーは、彼の手元から取り上げられて、若手に振り分けられた。

「そこまで嫌われているのか・・・。」

流石に傷ついた駒形は、自分の身の振り方を考えるようになる。

実は、この頃になると、社内での評価は上昇しつつあった。彼の生意気な態度には改善が見られたし、手掛けていた単発ツアーが、下手な花形シリーズを上回るほどの結果を出すことがあった。役員の間では、「フランスの宮殿ツアーのメンバーには変更なし。ただし、この次のイベントツアーの中心メンバーに駒形を入れよう。」と話し合われていた。

 

しかし、その知らせがが届く前に、駒形には別の声がかかった。

「ならお前、プロ添になれよ。」

そう提案したのは、リッチ&コンフォートに、時々出入りしていた派遣添乗員の小山だった。プロ添とは、添乗員だけで稼いでいるプロ添乗員。要するに派遣添乗員のことだ。それに対して、思川のように会社に所属して、内勤をこなしながら現場に出る者を社員添乗員という。

「プロ添なら、見るべきものをきちんと案内して、お客様から好かれて、アンケートでいい評価をいただく。それで稼げる。社内の人間関係なんて気にしないでいいぞ。結果がすべてだ。」

「うーん・・・。」

最初は気が進まなかった。それに、同じ旅行に携わる仕事でも、ずっと旅行会社に所属していた駒形は、派遣添乗員の待遇をよく知らなかった。ただ、業界誌で「添乗員の平均年収は300万円弱」という記事を読んだことがあり、専任添乗員の待遇の低さを哀れんだ記憶だけはあった。

「そんなもん、ただの数字だよ。新卒で添乗員になっても、最初は仕事なんてないからな。たぶん初年度の年収は100万いかないだろう。それと、国内と海外ではギャラが全然違う。すべてを含んでの平均が、それくらいってことだよ。俺が、そんな収入で生活できっこないだろ。子供だっているのに。」

小山の話には、時々はったりがあったが、この時の内容には説得力があった。

「俺の年収はこれくらいだよ。」

「え・・・意外ともらえるんですね。」

彼が、指を立てて示した金額は、駒形の想像を遥かに超えていた。親しい派遣会社の知り合いに聞いてみたが、どうやら小山のはったりではなさそうだ。

「年間200日以上、ツアーを選ばずに、どんなものでもこなして、取引先から信用を得れば可能でしょうね。誰でも届くところではありませんが。小山さんは、そういう仕事をしていると思います。」

様々なアドバイスが、彼を後押しした。

「適当なツアーを、適当な日数こなすだけなら、それは派遣添乗員だ。ある程度厳しいスケジュールでも、そしてどんなツアーでも、こなせる添乗員は他とは比べ物にならないほど稼げる。それは派遣じゃない。プロフェッショナルだ。」

駒形は、プロフェッショナルな添乗員を目指して転身を決心した。退職を申し出た際、「次のイベントツアーでは中心メンバー」と伝えられても、迷いなくやめた。結果がすべての添乗員の道を選んだ。そこが、自分が一番勝てる場所だと思った。

 

「そういうことか。うちの誘いを断ったのも、人間関係が怖かったから?」

一通り話を聞いた思川が、好奇心満々な表情を浮かべていた。


※長くなったので、後半は本日夜に発信します。

スリーシーズ・カイロ。市内にあるデラックスカテゴリーホテルでも、特に評価の高いこのホテルに、ツアーは宿泊した。部屋からも、上階のダイニングやバーからもナイル川とカイロの夜景が美しく眺められるホテルは、まさにファーストクラスの名にふさわしいものだ。前日の深夜にカイロに着いて、この日は夕方まで観光を頑張ったツアー客は、疲れていたのだろう。イタリアンのコース料理を楽しむと、早々と席を立った。

 

「駒形君、明日の打ち合わせするよ。寝る前に付き合って。」

最後の客が席を立つと、思川が指示を出した。

「え?さっきやったでしょ?ディナーの集合前。」

「もう一度やろう。少し確認したいこともあるし。」

疲れており、ディナーが終わったらすぐにベッドに入ろうと思っていた駒形は、すぐに返事をしなかった。

「いいから。やるわよ。お客さんより楽しんだ後は、お客さんよりも早く寝る気?」

それを言われると返す言葉がなかった。「たった数十秒間ツタンカーメンと見つめ合っただけなんだけど、当分の間言われそうだな・・・」心の中でため息をつきながら、思川に付き合った。

 

ついていった先は、30階の展望バー「ラムセス二世」だ。場所だけでなく値段も高い。一階のラウンジかロビーバーに行くと思っていた駒形は、少し驚いた。日頃、ストイックな思川には、このようなところで仕事後の時間を楽しむというイメージがなかったのだ。

逆に駒形は、どちらかというと浪費家で、バーが大好きなうえに、けっこうな頻度でファーストクラス・トラベルのエジプトツアーを案内していた。当然、何度もここに来ており、バー・スタッフとも顔見知りだった。

「おお、ミスター・駒形。どうぞこちらへ。」

たかだか添乗員が、一流ホテルの一流バーで常連のごとき振舞うのは、身の丈に合わない行為であったが、少々お調子者の駒形は「これはこれで役得」と、良くも悪くも割り切っていた。彼は、「いつものように」誘導されてカウンターに向かった。いや、思川をエスコートしていたから、いつもとは少し違ったかもしれない。美人な彼女を連れている分、少し心が躍っているのが自分でも分かった。

「やっぱり来たことあるのね。」

思川は、やはりという顔をしている。

「御社のツアーで、何度もエジプトツアーに来てますから。いつもお世話になっております。」

「ここでも、お客さんよりも自分が楽しんでいたのね。」

「いや、だいたいお客さんと一緒だよ。一人で飲みに来たのは2回くらい。」

「冗談よ。」

駒形をからかうような笑みを浮かべた。

「でも、2回はひとりで来てるのね。」

「どなたも希望されない時はね。でも、こういうところでは、自分でお金を払って楽しまないと、自分の中に何も残らないよ。」

「そんなムキにならなくてもいいから()・・・でも、いいなあ、男は。こういうところに一人で来れて。」

「女は一人で来れないの?」

「そんなこともないけどさ、来にくいね。女は一人でいると、やたら店の人に話しかけられるし。」

「男だって一人なら話しかけられるよ。」

「それとは全然違うよ。」

少し、たしなめるような口調で思川は言った。

「見て。ヨーロッパなら、夜のこういう場所でも、女性の店員がいるけれど、このバーは男性ばかりでしょ?」

「・・・本当だ・・・。」

「イスラム圏でお酒が飲めるところって、こんなものよ。夜遅くなったら特にね。男性しかいないお店って、女には・・・少なくとも私には居心地悪いのよ。」

「なるほど。」

「だから、今晩は駒形君がいるから、ここで打ち合わせできるなって思ったの。せっかくこのホテルに泊まってるんだし、ここに来たかったの。心強いわ。ありがとう。」

 

ニコッとしてそう言うと、彼女は、手元のバインダーから書類を取り出して、目を通し始めた。

「それ、さっき読み合わせしたよ。なにも問題なかった。」

「分かってる。」

「確認じゃなくて、打合せだろ?書類に目を通すだけなら僕がいなくてもいいじゃん。」

「もう一度、確認したいの。少し黙ってて。私は、企画担当なの。ハケン(派遣)さんとは違うの。気楽にできないの!」

「は?」

イラッとした駒形が、言い返す前に思川は付け加えた。

「このエジプトは、絶対に成功させないといけないんだから。」

眉間に皺を寄せた彼女の顔色を見た駒形は、一瞬で冷静になった。そして、しばらく思川をそっとしておくことにした。彼自身も旅行会社に所属して、企画や手配の仕事をしていたことがある。初めてツアーをまかされた頃は、現地の様子が心配で、夜、ろくに眠れないことがあったのを思い出した。そんな自分の過去に、思川の姿が重なった。彼女は、元々駒形と同じ派遣元に所属していたが、ファーストクラス・トラベルからヘッドハンティングをされて移籍した。それが一年半前。このツアーが、おそらく彼女にとって初めての大きな仕事だった。

書類に目を通した後、もう一度書類の読み合わせを、彼女は望んだ。ディナー前とまったく同じ作業だ。駒形にとっては、十分行った作業でも、思川にとっては「大切な気休め」を兼ねた、重要な確認作業だった。目の前に流れるナイル川とそこに広がる夜景よりも、手元に、確実に誤りのない書類が存在していることに安らぎを求めていた。それを理解した駒形は、おとなしく彼女の作業を手伝った。

 

やっと気が済んだのか、彼女は、ようやく自分がオーダーしたジントニックを手にした。そしてグラスを口に運ぶ前に一度止まり、バーテンダーに問いかけた。

「すみません。このグラスの氷は・・・?」

「当ホテルで飲料用に仕入れた水を、凍らせたものです。水道水からつくったものではありません。」

「ありがとう。なら安心ね。」

仕事を終えた思川は、いつもの冷静なハンサムガールだった。バーのライトに映える美しい笑みを浮かべながら、ジントニックをグッと一口飲のんだ。深く細い息をついた思川は、駒形に顔を向けた。

「前から聞こうと思ったんだけど、どうしてうちの旅行会社に来なかったの?」

「え?」

「桐生部長から聞いたの。駒形君も誘ったのに断られたって。佐野課長からも一生懸命誘われたんでしょう?どうして断ったの?」

「ハケンのほうが気楽だからさ。」

ついさっきのお返しに、駒形は意地悪を言った。

「それはそうだろうけど・・・。」

思川はひるまずに、重ねて問いかけた。

「本当はどうしてなの?

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