マスター・ツートンのちょっと天使な添乗員の話

自称天使の添乗員マスター・ツートンの体験記。旅先の様々な経験、人間模様などを書いていきます。

April 2021

今回は、特に長い話を読んでいただいて、どうもありがとうございます。

途中から、どんどんアクセスが伸びていったので、それに励まされて、書き続けることができました。

 

知り合いの方々から、いろいろな感想をいただきましたが、念のため申し上げておきます。

今回の話は、事実に基づいたフィクションです。駒形敬は、僕ではありません。ある程度、僕の添乗哲学を入れてはありますが、僕そのものではありません。思川葉月も、モデルはいますが架空の人物です。会いたくてもいませんから、ご注意ください。なお、外見、添乗のやり方、話し方にそれぞれモデルがいます。

 

お客さんたちが次々に倒れていく様子と、花崎が離陸直前に帰国便から降機を命じられるシーンは、実際にあった事柄を書きました。また、現地の医師たちの診察の様子や言葉についても事実です。日本の医療に関わる人たちからすると、考え難いこともあるらしいのですが、それもまた事実です。

ただ、それらに関わる人物の設定は、当時の関係者が読んでも不快感にならないように、大幅に変えてあります。話の流れも変えてあります。

 

一方で、フィクションだからこそ描ける部分もあり、描写の幅は広がった気がします。

この話には、原作に当たるノンフィクションがあり、それをお読みになった方々にとって、この連載は、まったく違うものになっていたと思いますが、それは、描写の幅のせいだと思ってください。

 

人物と話の設定、特に人物設定には苦労しました。例えば、会話の中で、「この人がこれを言ったら、キャラが変わってしまう」ということに気付いて、丸々話を書き直したこともあります。話の回収にも苦労しましたし、あえて回収しなかったものもあります。

 

楽しかったのは、登場人物たちが、頭の中で会話を始めた時でした。表現ではなく、本当に会話を始めるのです。駒形、思川、イスカンダルや渡良瀬、大平夫人は特にお喋りで、いつまでも話が続いて、気が付いたら4ページくらい進んでしまい、

「いつまで喋ってるんだ、お前たち。」

と、思わず怪しいひとりごと言いながら、笑ってしまったこともありました。その後、削るのに苦労しましたけどね。

 

話をまとめるのに参考にしたのが、名作漫画になった「鬼滅の刃」です。単行本を大人買いして読んだのですが、時々設定秘話が出てくるんですね。設定したけど本編に登場しない話、人物がたくさんあることが分かり、ストーリーを作るとはそういうことでもあるのか、ということを学びました。

そう思ってから、頭に浮かんだものは、全て書いて、消さずに残すことにして、使わなかった部分は、読者に見せない自分だけが知っているシーンとして留めています。

それらの中には、ぜひスピンオフとして書きたいものがあり、明日からは、それを少し紹介したいと思います。

 

明日は、ロンドンに残った思川と花崎のお話です。

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ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

これまでの登場人物は、上の①をご覧ください。後から登場した人々も、その都度アップデートしています。

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翌日のインドツアー打合せ前に、ヒアリングは行われた。

一日遅れて帰国した思川は、その日のうちに出社して、その場に立ち会った。思川が、ツアーの合間に詳細を記したレポートを作っており、それを元に行われた。ヒアリングというよりは、読み合わせのようだった。

参加客一人一人の様子、駒形と思川のどちらが対応したかなどが、完璧に書かれていた。それさえ読んで理解すれば、そのままケアの電話をかけられそうな代物だった。駒形は、記録されている自分の言動について、微妙にニュアンスが意図したものと違うところのみ、訂正した。

そのような詳細なレポートを、思川は、現場で対応しながら書き続けたいたという。

「いつの間に書いていたの?」

驚きながら尋ねる駒形に、思川は涼しい顔で

「時間がある時に少しずつね。あなたが、熱出して寝てる時とか。」

など軽い皮肉をこめてこたえた。

「よし!これで全容はつかめたな。駒形さん、あなたの仕事は終わり。あとは、我々社員がなんとかします。本当にお疲れ様。あとは、次のインドツアーに集中してください。」

「え・・・?これだけでいいんですか?」

「問題ない。昨日の駒形さんの報告と、思川のレポートでは、矛盾するところが全くないし、空港でお客様たちとも、一度話しているからね。大丈夫。あなたが、保身のために会社を売るだなんて、誰も思っていないよ。

それに、インドツアーの準備がおろそかになっても困る。寧ろ、これからはそちらに集中してください。」

 

駒形は、言われた通り、帰国後のケアにはまったく関わらず、そのままインドに出発した。

手配が整ったファーストクラス・トラベルのインドツアーは、人数も8人と少なく、それは素晴らしいものだった。エジプトでいろいろあり過ぎた分、インドでは驚くほど何もなく(いや、それが普通なのだが)、心が洗われた気分で帰国した。

 

帰国後、完璧な報告を10分で終えた後、駒形は、担当者に聞いてみた。

「あのエジプトツアーの件は、その後、どうなったんでしょうか?なにも聞かれないから、なんか不安で。」

「あれね。とりあえず済みました。確かに駒形さんは気になりますよね。今、思川を呼びますよ。」

 

11日ぶりに思川と会った駒形は、いろいろな話を聞くことができた。

まず、佐野課長は、JATA(日本旅行業協会)に連絡を取った。トラブルがあって対応に困った時、JATAのアドバイスが、その指針になることが多い。ある意味、裁判所のような役割を担っている。その判断は、「そのトラブルは、旅行会社にとって免責事項。業法的には、なんの責任を負う必要はない」だった。また、現場で行った対応については「十分過ぎるほどのサービス」というお墨付きまでもらえた。

よって、当初の判断通り、補償、賠償はなし。あるとしてもお見舞いというスタンスで、社員は動き始めた。

作業としては、思川が、比較的問題なさそうな客に連絡をとり、佐野課長と富田係長が、対応が難しそうな渡良瀬や韮山たちに連絡を取るはずだった。

ところが、計算外のことが起こった。駒形が、エジプトツアーの報告と、インドツアーの打ち合わせを兼ねて来社した日、つまり思川の帰国日。彼女は、夕方会社で下痢を発症した。念のため検査してみると、原因はノロウィルスと判明して、彼女は一週間、会社を休むことを命じられた。

彼女の症状は、参加者全員に連絡を取る際に伝えられた。そのうえで、旅行中の症状が心配な客には、病院に行くことや検査をすすめた。しかし、その後、前日まで一緒にいた花崎も含めて、ノロウィルスの感染や症状を訴えた者は出なかった。

一番、敏感に反応したのは韮山だ。

「ノロ?本当にノロなのですか?」

あくまで、思川の症状を知らせただけなのだが、彼は、他の客の状態も盛んに聞きたがった。韮山は、31人の参加者の中で、一番最初に体調を崩した。もし、このツアーで体調を崩した客たちの原因が、ノロウィルスであるならば、自分が発生源である可能性を感じたのかもしれない。

帰国時、空港で様々な意見を言っていた韮山は、これをきっかけに、言葉が少なくなり、最終的には、旅行会社の現場での対応に納得した形をとった。

 

「正確な病名を究明して発表するべき。体調を崩した人たちが、旅行の楽しみに水を差された。なんらかの賠償を船会社、またはその船を選んだ船会社に求めたい」というスタンスだった岩舟母娘の母親は、医師である夫に、それ以上のクレームを止められた。最後の会社への電話は夫からだった。

「現地の医師が、検査は必要ないと言い、添乗員たちは全力を出して、客全員を帰国させた。これ以上の成果はありません。ありがとうございます。」

医師が、とにかく無事であることを真っ先に評価してくれたのが全てだった。検査は、夫が勤務する医療施設で行ったが、なにも異常は出なかったという。この家族は、その後の旅行も同社で申し込んだ。

 

母娘で、初診は別々の医師にかかり、二人目の医師の薬がうまく効かず、それを問題としていた羽生母娘の母親は、経営者である夫に相談した後、お得意の弁護士に意見を聞いた。弁護士は、ファーストクラス・トラベルに連絡してきた。その結果、

「服用した薬は、個人の判断で一人目の医師のものに戻しているし、そこは自己責任。そのほか、現地で旅行会社が強く出るべきところはあったかもしれない。だが、全員での帰国を優先するのは当然で、それだけでなく、旅行会社は、利益を顧みずに食事手配や、国内線航空機の変更などを行い、参加者が少しでも旅行を楽しめるような努力をした。そこまでしてくれる旅行会社と関係を悪化させていいのか?」

ということになり、それ以上、このことについて連絡してくることはなかった。

ご主人からは、「お世話になりました」と、佐野課長のところにお礼の電話が来た。

 

一番難しそうだった渡良瀬は、自分が経営している会社の顧問弁護士に相談したところ、羽生の弁護士と同じようなことを言われて、「裁判をして勝ったとしても、費用のほうが高くつきます。」と言われて、訴えるのをやめた。

ただし、彼の場合は、帰国後に自分で病院に出向き、なんらかの食中毒の原因となる細菌が、排泄物から発見されており、「旅行中に検査すれば、もっと同じ症状の方がいたのではないか」という姿勢だけは崩さなかった。ただ、他に同じ検査結果が出たという客は現れなかったため、事を大きくはせず、これを含めた様々なことを「意見」として言い放った後、最後に駒形と思川の対応を称えて、

「これからも、いいツアーがあれば御社で旅行をしたい」

という言葉で締めくくった。

 

「なんか、呆気なく終わったんだね。もっとこう・・・長く続くと思った。」

駒形の言葉に、思川が同意しながら、状況を説明した。

「こういう時は、留守番をしている家族も一緒になって怒ることが多いんだけど、今回は、止めてくださる方が多かったみたい。」

「なるほど。」

「あとね、佐野課長が言ってたんだけど、『もし、お得意の弁護士などに相談してくれれば助かる』って言ってた。」

「へえ。なぜ?」

「今回の件なら、懇意にしている弁護士ほど訴えるのを止めるだろうって。うちに連絡してきた弁護士も、現地での対応を確認して、『わかりました。お互いに事を荒立てないようにしましょう』くらいの感じだったからね。」

「へー・・・。」

電話では、現場で対応する二人に、会社が大きな決定権を与えていることを理解している客も多く、当初思っているほどの大変な対応はなかったという。

 

佐野課長は言う。

「興味深かかったのは、症状が重かった方ほど理解があり、軽い方ほど文句が多かった。不思議なものだね。思川のノロウィルスの話が出てから、一気にみなさん冷めた感じかな。グループの中に感染源がいたのかもしれない。でも、犯人探しはやめようみたいな。

まあ、事が大きくならなかったのは、添乗員の力が大きかったよ。駒形さんの仕切りと思い付きはさすがだね。うちの思川のレポートも完璧でね。2人が帰国する前に、私たちも方針を決めることができた。本当にありがとう。」

駒形にしてみれば、その情報を基に、しっかりと方針を決めて対応できるファースト・クラストラベルが一番素晴らしいと思った。

結果的には、現場とオフィスとの連携がうまくいったと言える。

 

後で分かったことだが、一部の客同士で連絡を取り合って、訴えようと提案した参加客がいたらしいが、大半に拒否されて不発に終わったらしい。「なんだかんだで楽しかった」という声が大きかったようだ。

 

これほど大きなトラブルになると、誰もが納得する形で終わるのは難しい。

客が、自分で主張すべきだと思ったことを主張して、旅行会社が受けて、結果的にそれが大炎上することもある。それでも、やがて炎はおさまり、消える。

そこで、きれいに忘れる者がいれば、燃えた跡を見つめながら恨めしそうに去ってゆく者もいる。

 

駒形と思川も、楽しんでいただけた喜び、理解してもらえた安堵感と共に、伝えきれなかった虚しさを感じつつ、焼け跡に背を向けた。

 

そして、次の仕事に進んでいった。

 

おわり

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すみません。予告と違って、今回は最終回ではありません。

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駒形には、旅行会社の社員時代、苦い経験があった。

20代の若手社員だった頃、ある添乗の仕事で、現地での手配不備に振り回されて、参加客の満足を一切得られずに帰国したことがある。駒形は、何かある度に必死に働いた。そのためか、客からの評判は良く、アンケートで、添乗員だけは高評価だった。ホテルと食事の評価は散々だったにも関わらずだ。

帰国後、尊敬する上司から言われた。

「手配不備は申し訳なかった。大変だったと思う。お客様も、君のことだけは評価してくれてよかった。」

そう労ってくれた後、上司は続けた。

「だが、そこまで手配がひどいのなら、ツアーが終わる前にどうして知らせてくれなかったんだ。こんな手配を、担当者がわざと組むはずがない。知らせてくれさえすれば、もう少しお客様には楽しんでいただけるよう、対応できた。君は、現場でお客様が怒っているのを、ずっと見ていたんだろう?」

アンケートの中の自分の評価が高かっため、安心していた駒形は、上司の言葉に驚いた。上司は、駒形がレポートに連ねたトラブルの内容を確かめながら、

「これとこれは仕方ない。だが、残りの三つは、その気になればリカバリーできた。厳しいことを言うが、君が現場で何もしなかったというのは、お客様と一緒に、旅行会社の悪口を言っているのと変わらない。会社を売っているのと同じだ。旅行を楽しめなくて傷ついているお客様を見捨てたと言い換えることもできる。自分のことは、非難されないように、忙しそうに動きまわっていれば、お客さんの見る目もごまかせるしな。」

そんなつもりは全くなかった駒形は、上司の言葉に、深く傷ついた。その様子を、上司は見逃さない。

「そんなつもりはなかったって思っているだろう?でもな、そういう添乗員もいるんだよ。同類に思われないように気をつけたほうがいい。」

「同類ってどういうことですか?」

駒形は、初めて上司に問い返した。上司は、社員も派遣も関係なく、4人の添乗員の名前を告げた。

「彼らのアンケート結果と、お客様のコメントを見比べてごらん。自分さえよく見せられればいいか、真剣に旅行をお客様に楽しんでもらおうとしているか、よく分かるから。添乗員評価だけでなく、旅全体の評価も比べるんだぞ。」

4人のうち、最初の2人のアンケートでは、お客様からの添乗員評価は常に高かったが、旅全体の満足度は低かった。その中で、「添乗員は最高だったが・・・」というコメントが目立った。

別の2人のアンケートも、最初の2人ほどではないが、添乗員の評価は高く、好意的だった。だが、それに加えて旅行全体の満足度でも高い評価を得ていた。決定的だったのはその後だ。「添乗員のおかげで旅行を楽しめた」というコメントが目立った。

ショックだったのは、添乗員評価ばかりが高い2人のうち1人は、駒形をかわいがってくれて、添乗のコツを教えてくれている先輩社員だったことだ。

 

「簡単に気付いたろ?同じような大変なツアーを担当しても、一流の添乗員は、アンケートに『添乗員はよかったが・・・』とは書かれない。『添乗員のおかげで旅を楽しめた』と書かれる。ピンチの時も、自分の評価だけでなく、旅全体をなんとかして帰ってくるんだ。

君は、どうかな?これまで意識していなかったかもしれないが、旅の満足度は低くはないよ。ちゃんと旅先で、見るべきものを見せようという努力をしているとは思う。」

お説教一辺倒だと思っていたところで、意外な評価が降ってきたから、少し驚いた。

「だからこそ、今回の仕事はだめだ。お客様が大変な時に、自分だけよく見せようとして、何の工夫もせず、旅の評価をこんなひどいまま帰ってくることはあり得ない。」

だんだんと、上司の言葉が、心に落ちてきた。

「君は、企画部署に所属しているんだ。添乗員は、企画の現場監督だ。旅行そのものを盛り上げることを考えろ。なにをどうすれば、お客様に満足していただけるか、ピンチを挽回できるか考えろ。旅全体のことを考えられるようにならないと、いい企画をできるようにはならない。

添乗員の評価だけなら、簡単に上げられるんだ。ただ、汗水飛ばして頑張っていればいい。若い時は特にそうだ。でも、そんなことで満足してしまったら、旅行業の面白さを十分の一も味わえないぞ。」

 

この時の上司の言葉こそ、駒形が「企画頭での添乗」をするようになったきっかけだった。

そして、それ以来、「添乗員は良かったのだけど」と、アンケートに書かれることは二度となかった。

その、自分のキャリアの中で、もっとも言われたくないコメントが、今、目の前で囁かれている。駒形にとっては、屈辱に近いものだった。

 

「申し訳ありません。会社を売って保身に走ったつもりはないのですが・・・。」

一通り対応が終わって客が帰って行った後、そのために、成田空港まで来ていたファーストクラス・トラベルの社員たちに向かって、駒形は肩を落として謝った。

「何言ってるんだよ、駒形君!まったくそんなことないよ。」

佐野課長が、駒形の言うことを全否定して労った。

「思川から、いろいろ聞いているよ。よく2人で連携してやってくれた。会社の対応は、お客様たちとお話していくうちに、伝わるよ。心配しないで。今日は、これで帰っていいよ。明日はインドの打ち合わせだろう?その打ち合わせついでに、ヒアリングに付き合ってよ。明日は思川が帰国する。2人から、いろいろ聞きたいからね。あ、念のため、尋問ではないよ。調査だから心配しないで。」

思川は、忙しい最中、会社に、かなり細かいレポートを書いていたようだ。添乗員2人の行動を、担当部署の人間は、皆、把握しており、駒形は、自分の想像以上の高い評価を得ていた。

「いいのかなあ・・・。」

ほっとしながらも、なんとも言えない気持ちを抱えながら、帰宅した。

 

次回(こそ)最終回。

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僕が今、コールセンターで働いている地域では、昨日の朝からコロナワクチン接種の予約が始まった。

メンバーたちは、八王子や神戸の報道を見て、ちょっとびびり気味。嵐のように電話が鳴り、やっと電話がつながったと思ったら、もはやワクチンがなく、叱られたり文句を言われたりするのではないかと、始まる前はものすごい緊張感。

実際に回線がオープンすると、嵐よりもすさまじく電話は鳴り響いた。緊張もドキドキもする暇がない。

 

朝から夕方まで電話を取りっぱなし。喋り過ぎて、脳が酸欠状態になったのか、終わりのほうは少し頭痛がした。ペルーのクスコで、ちょっと走りまわったことがあって、その時に経験したものと似ていた。ん?まさか首都圏で高山病なわけはないか。

まあ、月曜日にして、すでに一週間分くらいは喋ったであろう。本当に疲れた。

 

今、コロナワクチンは大人気。みんなで、ネットや電話で確保しようとやっきだ。売れているJポップやKポップの歌手やバンドのチケットよりも取りにくいかもしれない。

でも、一時的に売り切れても、二度と手に入れる機会がないというものでもない。さっさと予約が埋まってしまった分は、「また、入ってくるまでお待ちください。」となだめながら対応する予定だった。

 

ところが、担当地域の行政は、先に大変な思いをした地域から、いろいろ学んで、手を打とうと考えていたようで、例えば、予約開始直前に人員を倍以上に増員した。ワクチンの量も、当初聞いていたより入ってきているようだった。

人員を増やしても、電話の繋がりにくさは、かける側にとっては、変わらなかっただろう。だが、現場でさばける予約数は全然違う。

ワクチンの数が聞いていたより多かったとはいえ、高齢者のみの対象だけを考えても、まだまだ足りないようだ。しかし、さほど大きな行政でないことを差し引いても、予約が初日の数時間でいっぱいになってしまう事態にはならなかったのは、いい意味で計算外だった。おかげで、明日もまだ、予約を受けられる。

電話をかけてくる方々も、「予約が取れた!」と、喜ぶ方々が多かった。メディアで流れていた悪いイメージがあったのだろう。僕らを労ってくださる声も少なくなかった。

おかげで、「いやー、いいことしたなあ。」と勘違いしてしまいそうだった。ただ電話を取っていただけなのに。

 

まあ、本当の不満が出てくるのはこれからなのだろうが、メディアで言っていることと、自分の現場を比べてみると、少しは改善しているのかなあ・・・というのが実感だった。

 

ワクチンについては、政府がどうのこうのいう人がたくさんいるけど、そういうのは言いたい人に言わせて、僕は、心の中にしまっておこう。自国生産がない場合、ワクチンの確保は、かなり難しいらしいし、少なくとも、一般人は、今ある条件の中で頑張るしかない。

 

みんなワクチン受けたいよねえ・・・。今日も、頑張ります。

 

というわけで、疲れていたので、「ナイルの悪夢」は一回休み。ちなみに、次回は、最終回にならない可能性が強くなってきたのでよろしく。一話伸びるかも。大目に見てね。
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ここから先は、日曜日に散歩した時のきれいな東京の写真。本文とは関係ありません。
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ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

 

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目が覚めると、機内はすっかり暗くなっていた。時計を見ると、離陸してから5時間経っていた。

「しまった・・・腹が減った。」

どんなに落ち込んでも、腹が減る時は減る。その前に、喉がカラカラに渇いていることに気付いた。出発前に、あれだけ緊張状態だったのだ。無理もない。

駒形は、席を立ち、サービスカウンターに向かった。消灯した後の機内では、CAが交代制でそこに控えている。だが、またもやそこにいたのは、あの、日本人CAだった。

「マジかよ。勘弁してくれ。」

駒形は、彼女と目が合う前に、素早くカウンターの死角に入った。何も食べていないのに、胸がムカムカした。

だが、「あんな女に世話になるくらいなら、死んだほうがましだ」と、思えたのは、ほんの一瞬だった。「これ以上飲まず食わずでいたら本当に死んでしまうかもしれない」事に気付いた駒形は、プライドを捨てて、サービスを求めた。

「すみません。喉が渇いちゃって・・・ビールを頂けませんか?」

「はい。ハイネケンとタイガーとロンドンプライドがございますが。」

彼女は、何事もなかったかのように、普通に接客してきた。

「ロンドンプライドをください。」

「はい。かしこまりました。」

「あの、誰もいないから、ここで飲んでしまっていいですか?」

「どうぞ。」

ロンドンプライドは、味が濃いビター。日本語でいうと赤茶色をしているが、現地の愛好家にはマホガニー色などと言われている。

「珍しいですね。これを頼まれる方は、あまりいらっしゃいませんよ。」

「時々飲みたくなるんです。でも、グレート・ブリテン航空さんにしか置いてないから、なかなか飲む機会がなくて。・・・それと、あの・・・。」

「なんですか?」

「ちょっと行儀悪いけど、ここにあるサンドイッチ、3個くらい持って行ってもいいですか?機内食とりそこなっちゃって。」

「ずっとお休みでしたものね。洋食のチキンメニューでしたら、今からでもお出しできますよ。いかがなさいますか?」

「え?いいんですか?」

「もちろんです。お席にお持ちします。お飲み物は?ロンドンプライドをもう一本でよろしいですか?」

「いえ、赤ワインをください。」

駒形は、いつの間にかCAと自然に話していることに気付き、恥ずかしくなった。すんなりそれができてしますCAに、なんとなく敗北感のようなものを感じていた。サービスされた食事は、美味しくいただいた。空腹が満たされてくると、前向きになるし、いろいろと許せるようになる。

「そうだよな・・・。あの時の花崎様に対する彼女の態度も、お客様の健康第一とか言ってたもんな。あれは、あれで正義感なんだろうな。実は、いい人かも。こうやって、機内食持ってくれるし。・・・仮にこれがさっきのことに対するご機嫌とりだとしても・・・まあ、いい人の部類に入ることにしよう。うん。」

「思川さん、大丈夫かな。・・・おっと、心配すべきは花崎様か。だったらなおさら大丈夫か。思川さんがいるし。2人だけなら、思川さん、なにか美味いものごちそうになっているかもな。後で聞きだしてやる。」

急に睡魔に襲われた。駒形は、成田に着く直前まで、再び眠り続けた。

 

成田空港に着いた、それぞれが入国して、スーツケーズを取るためにターンテーブルの前に行くと、客の多くが駒形のところに殺到した。当然、花崎の一件についてだ。

「個人情報の一種ですから、細かいことはお答えできません。」

駒形は、そう答えたものの、ヒースロー空港出発前に呼び出された理由を、花崎は、ツアー中に親しくなった客に、ビジネスクラス・エリアに行ってまで話していたらしく、その客から情報が、グループ内であっという間に広まった。

「下痢の症状がいあったら、搭乗拒否があり得るというのは、駒形さんも知っていたんじゃないか?だとしたら、帰国前日に、みなさんに言うべきだっと思う。」

と、主張してきたのは渡良瀬だ。完全に粗探しだが、添乗員一人では分が悪く、適切な言い訳が、なにもできなかった。

 

スーツケースを取った客から、税関を出ていく。これだけのトラブルがあったツアーだから、ファーストクラス・トラベルの社員が4人体制で、迎えに来ていた。

出迎えた社員が、30人の客と、それぞれ話している。最後に税関から出た駒形からは、多くの客の声が入り交じり、誰が何を言っているか聞き取れない。

おそらく、厳しい意見を浴びせていたのは、渡良瀬、羽生母娘、岩舟母娘だ。冷静に、しかし長く話していたのは韮山だった。大半の客は、多少、会社の対応に不満がありながらも、ツアーには、ある程度は納得しているようだ。

その中で、何度か聞こえてくる言葉に、駒形は胸を痛めていた。

「添乗員は、よかったのだけど・・・」

客が、ツアー全体や添乗員を評価するうえで、駒形が最も忌み嫌う言葉がそれだった。

 

次回、最終回。

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10秒ほどして、うなだれていた思川は顔を上げて、天を仰いでいた駒形は正面を向いた。

これは現実だ。「つづく」という文字が画面に出て、一週間後まで展開が進まないドラマとは違う。立ち尽くしている暇などない。

「駒形君、私は、自分の荷物を全部持ってくる。その間に、花崎さんのところに行って、お知らせして。ちょっと大変かもだけど、よろしく!」

「かしこまり!」

駒形は、チーフパーサーに頭を下げてお願いした。

「ファーストクラス・エリアへの立ち入りを許可してください。花崎様への案内は、僕にやらせてください。」

チーフ・パーサーは頷き、日本人CAが、

「私がご一緒しましょう。」

と、一歩出た。しかし駒形は、

「申し訳ないのですが、付き添いは他の方をお願いします。」

と、注文をつけた。そばにいたCAたちの表情がこわばった。「なぜ、あなたがそんな指示をする?」とでも言っているかのようだ。駒形は、丁寧に説明した。

「花崎様は、この方のせいで航空機から降りなければいけないと思っています。彼女を見て、感情を乱して、花崎様の態度が硬化したら、説得が面倒になります。スムーズにいくように、どうか協力してください。」

皆の表情が、「なるほど」というものに変わった。

「私が行きましょう。」

ついさっき、駒形たちに、「降機するなら荷物の準備を」と助言してくれたベテランCAがついてくれることになった。

 

駒形が、ファーストクラス・エリアに入ると、花崎はシャンパングラスを片手に、ゆったりと寛いでいた。「この姿を見ても、降りなければいけないと思うかなあ。機長に見せてやりたいよ。」と思いながら、駒形は、最終判断をお知らせした。

「そうか。だめなのか。それはまいったな。」

意外と花崎は冷静だった。

「下手に余計なこと言うもんじゃないなあ・・・。」

「余計なこと?」

「あ・・・いや。ところで、ここまで来たら降りるけどさ、私は、この後どうすればいいのかな?情けないが、一人では不安この上ないよ。」

「ご安心ください。思川がご一緒します。この後、体調に問題なければ、明日のフライトでお帰りいただけるそうです。」

「なに?思川さんに迷惑をかけてしまうのか!?それは申し訳ないな。・・・もし、私が降りるのを拒否したら?」

「強制的に降ろされます。」

「・・・本当か?」

「はい。航空機内では、いざという時の乗務員の権限は、絶対です。そこまでいくと、ご案内でなくて、命令なのです。ですから、拒否してしまうと、強制的に降ろされるだけでなく、『態度に問題ありの乗客』とみなされて、明日のフライト確保にも影響が出ます。」

「脅かさないでくれよ。」

「拒否するおつもりはないでしょう?質問におこたえすると、こういう答えになってしまうのです。僕も、思川も、とにかく無念ですが。機長の決定となるとどうしようもありません。」

「わかった。降りよう。ちょっと荷物をまとめるから待っててくれ。」

どうしようもない状態であることへのあきらめ、そして思川が同行することへの安心感が、彼を動かした。駒形の冷静な言葉の中にも、「お願いだから従ってくれ」という懇願の意が垣間見えた。

準備ができて、歩き始めた時、花崎は言った。

「さっき、私が呼び出されてから、この時間まで粘ってくれていたのだな。2人には感謝するよ。ありがとう。」

この辺りが、花崎の人間の大きさだ。客としては、ただ一人降機しなければいけない状況は、かなり心理的な負担になっているはずなのに、駒形たちを労うことを忘れない。

「どうしてこの方を連れて帰ることができないのだろう。」

花崎の優しさは、かえって駒形が感じていた、自分自身の無力感を増大させた。

ビジネスクラス・エリアを通る。他のツアー参加者の視線が注がれた。

「腹の調子がちょっと悪いくらいで、降りなきゃいけいないとはなー!」

おそらく、わざと大きな声で皆に分かるように、花崎は言った。

「彼はなにを言ったの?」

同行していたCAが、駒形にたずねた。

「下痢が原因で降りなければいけないと、ツアー仲間に知らせています。それだけです。」

懐疑的な目をしているCAに、駒形は言葉を付け足した。

「航空会社への対応に文句を言っているわけではありません。」

こういうシーンで、CAや航空会社に暴言を吐くことで、搭乗に支障をきたすトラブルが、稀に起きる。駒形はそれを恐れて、すぐに花崎の言動をフォローした。

思川が、出口で待っていた。花崎に丁寧に挨拶した後、駒形に指示する。

「このことは、すぐに日本に連絡するから。あとは駒形君、お願いね。」

 

ドアが閉まった。駒形が席について航空機が動き出す。緊張状態が終わり、自分の席についた駒形は、「全員での帰国」を果たせなかった悔しさと、自分の無力さと、花崎を降機へ追い込むきっかけを作った日本人CAへの恨みが重なり、かなり苛立っていた。思川に呼ばれた時に、再生を始めた映画は、半ば近くまできていたが、楽しむ気になれずに、画面を消した。

 

機内サービスが始まった。駒形のところを担当するのは、よりによって、あの日本人CAだった。

ドリンクカートが近づいてくると、駒形は目を閉じて寝たふりをした。少なくとも今は、彼女の顔を見たくなかった。

そして、ほんのわずかな間に寝たふりをするつもりが、深い眠りについてしまった。

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花崎が思川に案内されて、チーフパーサーの前にやってきた。

「お呼びだてしてすみません。花崎様。少々お聞きしたいことがあります。どうかご協力ください。通訳は、思川様にお願いしています。」

「分かりました。どうぞ。」

思川の通訳を受けた花崎は、落ち着いて対応した。パーサーが質問を始めた。

「私たちの同僚から報告を受けたのですが、花崎様は、旅行中に下痢をして体調を崩し、まだ完全に回復されていないと伺ったと申しております。現在も、まだ下痢の症状はありますでしょうか?」

「いえ、ありません。旅行中には、確かに体調を崩しましたが、昨日、医師に診てもらい、すっかり快復しました。今ではまったく問題ありません。」

「同僚は、あなたが『今も体調不良に違いない』と申しておりますが・・・」

「私も少し、大袈裟に話しましたからね。今もそうだというよいうに、捉われてしまったのかもしれません。いや、申し訳ない。でも、今は問題ありません。」

「そうですか。ありがとうございます。診断書をお見せいただけますか?一度、こちらをお預かりいたします。すぐにお返しいたしますからご安心ください。」

さすが、大会社の経営者だ。変に威圧的な態度をとることもなく、感情的にもならず、まるで思川と打合せしたかのような模範解答を自然にこたえてみせた。

一礼して、自分の席に戻っていく花崎。途中、ビジネスクラス・エリアを通っていく時に、ツアー仲間たちが、「なにごとか」と、彼の姿を見つめている。

 

「あれは、この場だからああ仰ってるだけです。私には間違いなく、今も下痢で苦しんでいると仰いました!」

「いや、だからそれは、あの方が大袈裟に大袈裟に仰ったことを、大袈裟にとらえてしまったんじゃ・・・」

やや大き目な声でCAに反論する駒形を、チーフパーサーは、手をかざして制した。

「君、落ち着いて。」

CAには、声をかけて落ち着かせた。

「お二人に、確認したいのですが・・・」

今度は、診断書に目を通したながら添乗員たちに問い質した。

「病名がアメーバ赤痢になっていますね・・・。医師は、本当に帰国を許可したのですか?ここには病名しか書かれていませんが。」

少々深刻そうな表情になったパーサーを見て、駒形は、嫌な予感がした。このツアーで、最初の患者がアメーバ赤痢だと診断されて、それについて、自分なりに調べていた。初期に治療すれば、大した症状も出ずに快復していく病気だということは分かった。

ただ、エジプトなどの途上国では珍しいものではなく、医師もそれほど問題あるものとして扱わないが、日本やイギリスのような衛生管理がしっかりしている先進国では、滅多に見るものではなく、そのぶん感染症として、やや深刻に扱われることもあるということを思い出していた。

少し、思川の声も弱気になったような気がする。

「それは・・・その診断書は、保険申請用ですから、航空機への搭乗許可についてまでは言及されていません。ただ、先ほども申し上げたたように、帰国の許可は、確かに医師からいただいています。それは間違いありません。成田までのフライトは長いですから、さすがに私たちも、そこは慎重です。医師の判断は無視しません。必ず従います。そこは考慮してください。」

「うーむ・・・。」

「どうか信じてください。」

日本人CAの表情が険しくなってきた。無言でチーフパーサーを見つめている。彼は、ファーストクラスエリアに、電話をかけた。花崎の様子を、別の担当CAに確かめさせたようだ。

「今、同僚に確認させたところでは、具合が悪そうでもなく、落ち着いているようです。お二人が主張されているのは、具合がよくなる前の話を、彼女(日本人CA)が誤解して受け取ってしまった、ということでよろしいでしょうか。」

「はい、そうです。」

「僕もそう思います。」

2人が声をそろえて言った。「勝てるかもしれない。」駒形と思川の心に、希望の光が見えてきた。この手の交渉で、添乗員が勝てるのは奇跡だ。とにかく、流れを掴んだまま離したくない。今、チーフパーサーの考えが、添乗員寄りになってきているのは間違いない。

「うむ。まず、彼女(日本人CA)は、お客様の健康と安全を第一に考えて、花崎様のことを報告しました。そこはご理解ください。」

「はい。理解しています。」

「お客様については、予定の航空機で日本にお帰りになるのが一番だと思います。健康的に問題なければ、私たちも、そのようにご案内すべきだと思います。」

日本人CAが、チーフパーサーに無言で詰め寄った。彼女には目もくれず、彼は、駒形と思川に話し続ける。

「ただ、すべての決定権は機長にあり、一度決断しています。今、お二人から伺ったお話を、もう一度機長に話して、花崎様にご搭乗いただく許可をいただかないといけません。今から、コクピットに行って聞いてまいります。よろしいですね?」

「はい。ぜひお願いします!」

思川と駒形は、思わず顔を見合わせた。思川に関しては、少し笑顔になった。まさか、機長に話を持っていくところにまで辿り着けるとは思わなかった。奇跡が起きるかもしれない。

チーフパーサーが、コクピットがある二階に上がっていく。

「私もご一緒します。」

日本人CAが、チーフパーサーを追って階段を上がりだした。思川の表情が、笑顔から「え?」という動揺しているものに変わった。そして、自分も階段を上がろうとした時、

「思川様は、こちらへお入りいただけません。」

日本人CAが、きっぱりと日本語で指摘した。

「え?でも、機長にお客様の状態をお話しないと・・・。」

「私たちが、きちんとさせていただきますからご安心ください。コクピットへ入れるのは、乗務員のみです。それに御社のお客様は、全員一階にいらっしゃいます。二階のビジネスクラスシートをご利用の方がいらっしゃらない以上、この先の立ち入りも許可できません。」

思川の顔が紅潮した。なにごとかと思ったのか、チーフパーサーが降りてくると、CAが事情を説明した。

「はい、それは彼女の言う通りです。こちらでお待ちください。」

と、「ルールはルール」という感じで、そこは冷静にあしらわれた。

思川は、一度階段に乗せた足を、恨めしそうにおろした。

掴んだはずの流れが一気に遠のいていく。チーフパーサーが確認しに行ったとはいえ、機長が聞くのは、あの日本人CAだけの主張だ。おそらく、判断は覆らないだろう。見えてきた希望の光は、一瞬にして消えた。

「思川さん、診断書にアメーバ赤痢って・・・あくまで可能性があるってことじゃなかったの?」

「診断書には、なにかしら病名を書かないといけないから、比較的症状でそう見えるものを書いたみたいよ。薬は、アメーバ赤痢だけでなく、ほかの感染症の初期症状に効くものをくださったのよ。ドクター・アイマンの薬とは、違うものだったけど。もし、心配なら日本で検査を受けるようにとも言われてるの。」

「そういうことか・・・。ねえ、おそらく、機長は判断を変えないと思う。」

「そうだね・・・。最後、あのCAがチーフパーサーについていくとはね・・・。」

ベテランらしいイギリス人CAが近づいてきた。

「お二人とも大変ですね。それで、だいたいお分かりだと思いますが、おそらく機長は判断を変えないでしょう。その場合、どうされますか?」

「その時は、私が一緒に降ります。」

「わかりました。それでは、いつでも降りられるように、荷物の準備をしておいてください。」

思川は、自分の席に戻って、荷物をいつても持ち出せるようにして戻ってきた。駒形は、席に戻るように促されたが、決断は一緒に聞かせて欲しいとお願いして受け入れられた。

 

CAたちが、出発前の作業に戻っていく。二人は、静かに無言で待った。だが、希望はまったく感じていなかった。

やがて、二人が降りてきた。

「機長の最終判断です。花崎様には、本日の搭乗をご遠慮いただきます。」

思川はうなだれて、駒形は天を仰いだ。厳しい現実を突きつけられた二人。


全員での帰国は、よりによって出発ギリギリのところで果たせないことになった。

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「ちょっと待ってください!」

思川が厳しい表情で訴えた。駒形は、まだ事の経緯を把握しきれていない。

「搭乗を拒否される理由がわかりません。もう一度、納得できる説明をしてください。」

チーフパーサーに詰め寄った。

「それについては、私が説明いたします。」

日本人女性CAが、日本語で話し出したが、チーフパーサーから、「すべての人間がわかるように英語で話しなさい」と言われると、英語で説明を始めた

 

時間は、30分ほど前にさかのぼる。

花崎は、搭乗して自分の席につこうとしていた。ファーストクラスにもなると、CAと乗客が接する場面が多くなる。この日の乗客は、花崎一人だったからなおさらだ。

担当CAが、コートや荷物などを預かりながら、にこやかに声をかけた。

「いかがでしたか?今回のご旅行は。」

「楽しかったよ。でも、まいったね。ツアー中に、グループの中で下痢が流行ってしまってね。最後になって私のところに来たんだよ。いやあ、まいったまいった。」

そして、少し大袈裟にお腹をさすりながら

「今は、もうだいぶいいんだけどね。まだ残ってるよ。」

と、言ってしまった。花崎にしてみれば、ちょっとした話題を提供したつもりだった。「それは大変でしたね。どうぞ機内でごゆっくりお過ごしください。」くらいのことを言われて、終わりだと思っていた。

ところがだ。CAは、「下痢がまだ残っている」という部分に、敏感に反応してしまった。

「お客様、昨日から続いている下痢の症状が、今もあるのですね?」

「ああ、少しだけね。」

CAは、そのことをすぐにチーフパーサーに知らせた。パーサーは、CAの通訳を介して花崎に声をかけて様子を観察した後、機長に知らせて指示を仰ごうとした。日本人CAは、花崎がツアー客ということを知り、彼から思川のシート番号を得て、「花崎の搭乗拒否の可能性」を思川に知らせたのだった。

驚いた思川は、飛び跳ねて、少し離れたシートに座っている駒形のところに向かった。。

思川は、「絶対に交渉になる」と思い、駒形を同行させた。交渉事では、数が物を言う。自分1人で、しかも相手のホームである機内で、チーフパーサーと複数のCAを相手に、話し合いで勝てるわけがない。駒形が来て2人になっても、不利には変わりなかったが、状況は遥かにましになる。

チーフパーサーとCAが戻ってきた時、「降機の必要はない。」と、言ってくれるのが最良だった。それならそこで問題は終わりだ。心配は杞憂に終わる。だが、機長の決断は最悪のものだった。

 

「それだけを乗客から聞いて、一方的に搭乗拒否というのは、あまりに理不尽です。ツアー客と分かっているのだから、まず私たちに、花崎様の具合を聞くべきでしょう!」

思川は、声を荒げて主張した。

「一応聞きましょう。」

チーフパーサーが、冷静に受け入れた。

「体調が悪かったのは、昨日カイロを出る時です。ロンドンに着いてからは、だいぶ症状は改善されました。念のため、医師の診察も受けて、帰国については問題ないとも言われておりますし、薬を処方されて服用してからは、さらによくなっています。」

「医師の許可を得ているのですね?君は、知っていたのかな?」

チーフパーサーは、思川の言葉を受けて、CAに問いかけた。

「いえ。そこまでは確かめていません。しかし、下痢が残っていると仰っていましたし、つらそうにお腹をさすっていました。顔色もよくありませんでした。下痢の症状があり、乾燥した機内で脱水症状でも起こしましたら大変です。それを判断して報告しました。」

「いや、だからどうして僕らに相談してくださらなかったんですか?」

駒形が食らいつく。

「機内で、乗客の体調管理をするのは、私たちです。」

「その管理と判断は、医師の判断を全く参考にしないのですか?」

「彼の言う通りです。医師の判断を無視してよいのですか?」

添乗員二人はCAを論破しようと必死だ。そこにチーフパーサーが割って入る。まわりでは、他のイギリス人CAたちが見守っていた。

「落ち着いてください。えーと・・・」

「思川です。」

「思川様、医師の診断書があるなら、こちらに提示していただけませんか?すでに一度機長は、花崎様の降機という決断をしています。それを覆すには、かなりしっかりとした根拠が必要になります。」

「チーフ!間違いなくお客様は、体調不良です。私が報告した通りで間違いありません。」

「ふむ・・・。彼女もこう言っています。花崎様と、もう一度お話させてください。私自身も、先ほどは、彼女と同じような印象を花崎様から受けました。この際、もう一度彼の様子を確かめなければいけません。」

「わかりました。」

駒形は、「しめた!」と思った。本人の様子さえ確認すれば、花崎の体調が降機するほどではないことを分かってもらえるはずだと思った。

ファーストクラスエリアには、添乗員は単独で入れない。日本人CAに案内されながら、思川が花崎のところに向かった。

話を聞いた花崎は、さすがに驚きを隠せなかった。

「なぜ私が降りなければいけないんだ!」

少々冷静さを失いそうになっている花崎を、思川は懸命になだめた。

「大丈夫です。これから問題ないというところを見せればいいのですから。」

その背後では、日本人CAが、静かに見守っていた。いや、観察していたというべきか。「なにか示し合わせようとしてもむだよ」とでも言うかのように。

「お急ぎください。チーフパーサーがお待ちです。」

まだ攻防は続く。

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翌日の昼頃、グループはヒースロー空港にいた。それぞれがチェックインするところを、添乗員が見守っている。

駒形は、花崎だけが、他の客と違うところにいることに気付いた。

「あれ?思川さん、花崎様がファーストクラスのカウンターにいるけど。」

「あの方は、元々ファーストクラスの手配だよ。行きもそうだった。ロンドンとカイロの間はファーストクラスシートがないから、みなさんと一緒にビジネスクラスを利用されてたけどね。」

「そうなんだ。知らなかった。まあ、大会社の経営者なら当然か。」

 

花崎は、紳士的な振舞いと気さくな人柄で、多くの参加者から好かれていた。

「最後までみなさんと仲良くしたいから、ラウンジはファーストクラスでなく、ビジネスクラスのものを利用させていただくよ。」

こんな感じで、まわりに溶け込んでいく様子からは、とても大会社の社長とは思えなかった。

「昨日はどうなるかと思ったけど、あの方が無事に帰れそうで、本当によかった。」

思川がしみじみと言った。

全員が無事にチェックインを済ませた後、ラウンジや免税店にご案内する。やがて、搭乗時間が迫ってきて、ゲート前に次々と集合してきた。

駒形は、韮山に声をかけた。

「この度は、いろいろとご協力いただいてありがとうございます。」

「いえいえ。駒形さんたちも本当に大変でしたね。懸命な対応には、本当に感謝しています。」

「いや・・・とにかく滅多にないことなので、常に後手にまわりました。いろいろ至らない点もあったと思います。」

「とんでもない。ちゃんとマンパワーを有効に生かした対応でしたよ。」

駒形は、自らへりくだった言い方をすることで、韮山から本音を引き出そうとした。これ以上の対応は、会社にまかせようと考えてはいたものの、前日に高崎夫妻や大平夫妻から伺ったことが事実であるなら、少しは、彼の本音を直接聞きたかったのだが、

「うーむ・・・やはり役者が違うか。」

駒形は心の中で呟きながら追及をやめた。いっこうに穏やかな表情を崩さない韮山。ある意味究極のポーカーフェイスだった。今までの仕事で、このようなやり方で、不満を抱えていそうな客から、なにかしら本音を引き出せたことはあったが、今回はお手上げだ。

「考えてみれば、この程度で本音が出てくるくらいなら、とっくにどこかで漏らしているよな。」

そう納得した駒形は、おとなしく機内に向かった。

 

切り替えは早い。比較的空いていたエコノミークラスでは、隣が空いている通路側の席を確保できた。そこで、ゆったりと過ごすための準備を始めた。まずは機内映画チェック。彼にとって、飛行中の映画鑑賞は、大きな楽しみのひとつだ。

「お!こいつはラッキーだ。ハリー・ポッターシリーズが、全部入ってる。成田に着くまで全部見るのは無理だな。どれを見ようかなあ。」

時々駒形は、妙に子供っぽいところがあった。名作とはいえ、少年少女向けのハリー・ポッターを観られることを、これだけ喜ぶ中年男性も珍しい。とりあえず、「賢者の石」と「秘密の部屋」を飛ばそうと決めた時、思川が、悪役の魔女のような形相でやってきた。

 

「寛いているところ悪いけど、一緒に来て。」

ただならぬ彼女の様子に、駒形は、すぐにヘッドホーンを外して立ち上がった。

「どうしたの?」

「歩きながら話す。」

2人は、早歩きで飛行機の入り口へと向かった。

「花崎さんに降機命令が出るかもしれないの。」

「え?誰から?」

「機長からよ!」

「ちょっと待って、どういうこと?話が繋がらないんだけど。」

「下痢の症状は、機内のように乾燥したところでは。脱水症状の原因になりえるからだと・・・。」

「あ・・・そういえば、どこかで聞いたことあるな。」

CAたちとの待ち合わせ場所に着いたらしい。思川は立ち止まった。

「駒形君、知ってたの?」

「知っていたことは知っていたけど・・・でも、だいぶ状態はいいんだろ?今朝、ホテルのレストランにはいらしたよ。それに、帰国に関しては、医師のお墨付きだって出ているはずだ。だいたい、どうして下痢の症状が分かってしまうんだ。そもそもそこが分からない。」

「シッ!」

思川が駒形を制した。二階からチーフパーサーと日本人女性CAが降りてきた。

「(思川に)こちらの男性も添乗員の方ですか?それならご一緒に案内いたしましょう。花崎様には、本日の搭乗をご遠慮いただきますよう、機長から指示が出ました。」

「・・・え?」

駒形と思川の思考が、しばし止まった。

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ワインと食事を楽しみながら、会話も弾む。内容は仕事のことだったり、いきなり無関係なものに飛んだり忙しい。

「こういうところに来ると、イギリスの食事も美味いよね。」

「そうね。」

「イギリスは、飯がまずいなんて誰が言ったのかな?」

「うーん・・・それは、みんなけっこう言っている気がする。でも、美味しいものを食べようと思ったら、この国では、けっこうなお金を出さないとだめよね。」

「確かに。しかも美味しいものは、だいたいイギリス料理じゃない。ここでも、キノコのアヒージョ、オリーブ、ラタトゥイユにスモークサーモン。さてクイズ。僕らは、どこの国で食事をしているでしょう?」

「うーん・・・エジプト!」

「惜しい!ボケてくれてありがとう。・・・でも帰りロンドン一泊でよかったな。」

「駒形君、イギリス好きだもんね。本当は、うちでイギリスとか、他のヨーロッパにもっと行きたいでしょう?」

ファーストクラス・トラベルでは、行先によって添乗員がある程度決まっている。駒形にとって、本来の主戦場はヨーロッパだが、この旅行会社では、エジプト、チュニジア、ケニアなどアフリカ方面の仕事が多かった。男性は、だいたいそういう国に割り当てられる。

「いや、僕がイギリスが好きとかではなくてさ・・・」

駒形が話を遮った。

「お客様のことを考えるとって意味でだよ。今朝、エジプトからの直行便で帰るとなると、きっと花崎様にはリスクが大きすぎた。」

「ああ、そこか。確かにそうだね。」

「どうだったの?医師の診察は?」

「帰国には問題ないって。アメーバ赤痢かどうか聞いてみたけど、可能性はある。仮にそうでも軽いから、処方する薬を服用すれば問題ないそうよ。明日帰国で大丈夫だって。ここに来る前もお伺いしたのだけど、だいぶ落ち着いている。」

「それはよかった。とりあえず、全員で帰国できそうだし、よかった、よかった。」

駒形がピノ・ノワールを注いだグラスをあげると、思川も、まだ飲み切っていない白ワインのグラスをあげて二度目の乾杯をした。

「なんか、駒形君は、もうツアーは大丈夫って感じだね。」

「まあね。」

注いだワインをを美味しそうにぐっと一口飲むと、駒形は機嫌よく話し始めた。

「全員で帰国するという目標は果たせそうだしね。それに、渡良瀬様たちも、この時点で、僕らにあれ以上何も言わないということは、あとは会社にまかせるしかない。他のお客様から、あの方たちの主張を、ある程度聞いているわけだから、そういう問い合わせに、会社が戸惑わないように、きちんと報告すれば、僕らの仕事は終わりだよ。その準備は、できている。」

肉料理が欲しくなった彼は、ビーフの赤ワイン煮込みを頼んだ。

思川は、頷きながらグラスを一度置いて、オリーブをひとつ口に入れた。

「そうだね。駒形君の仕事は、そこで終わりだね。確か、次のツアーも、うちのツアーじゃなかった?」

「うん。インドの仕事をいただいてる。次回もお世話になります。」

「それなら、なおさら気持ちを切り替えないといけないね。でも、私はそこで終わりとはいかないんだよ。」

バケットをつまみに赤ワインを楽しむ駒形の動きが止まった。それを待っていたかのように思川は、話し始めた。

「私は、企画担当だからね。帰国してからお客様の対応をする社員の一人なんだよ。それを考えるとね・・・なんか落ち込むよ。超ブルー。渡良瀬様たちのこともね、完全にカバーできなかったと思うと、ほんと残念だよ。悔しいなあ・・・。」

ツアーが始まってから、ずっと一緒に頑張ってきた。社員と派遣の立場の違いはあるが、現場では、そんなものは、頭の片隅にもなく、お互いを敬いながらプロフェショナルとしてやってきた。

だが、トラブルがあった時、そして、それが大きければ大きいほど、社員と雇われ添乗員の違いが、ちょっとした言葉や態度で浮き彫りになり、その関係に溝をつくることがある。

 

別に、思川が駒形の言動を責めたわけではない。これまでの働きぶりを見れば、彼が、お気楽に物を言っていないことはよく分かる。自分の仕事に対して、正しい線引きをしただけだ。

駒形も責められたとは、全く思っていない。彼女の言葉に、ほんの僅かな嫌味さえ感じていない。

ただ、二人にとって、この仕事のゴール地点が違ったという話だ。それ自体は、問題ではない。それなのに、一度気まずくなった空気が消えない。

「ごめん。そんなつもりはなかった。」

「いや、私も、別に他意はないの。ごめん。」

駒形が、お互いのグラスにピノ・ノワール注ぎながら、意識して会話を進めようとするが、なんかぎこちない。そのぎこちなさが、少しだけ酔っていた思川には笑えてきた。なんとなく気持ちをほぐしていく。


「うわー、いい香り!」

気まずい空気を、完全に吹き飛ばしたのは、ビーフの赤ワイン煮だった。温かく、美味しいものほど人の心を幸せにするものはない。

「これ、すごくピノに合わない?私、大好き。駒形君、最高のチョイスだよ。」

「今までの料理を食べて、絶対にここの赤ワイン煮はいけると思ったんだ。」

「ねえ、デザートもいっちゃおうよ。明日の朝はゆっくりなんだし。」

「いいねえ。」

デザートメニューに視線を落としたまま、思川が駒形にたずねた。

「駒形君は、旅行会社時代は企画やってたでしょ?」

「うん。やっていたよ。・・・僕はクリーム・ブリュレにする。」

「お、そうきたか。じゃ、私はミルフィーユで。・・・それでさ、今回のツアーどうだった?結果的に失敗じゃなかったかな?」

「なにが失敗だったと思うの?」

デザートメニューを置いた駒形は顔を上げて思川を見つめた。彼女もまた顔をあげた。

「いや、お客様がずいぶんと体調を崩しちゃったし、その後の対応とか・・・ほかに何かやり方がなかったかなあって・・・。」

「失敗じゃないよ。絶対に。」

「え?」

強い口調で失敗を否定した駒形に、思川は、一瞬たじろいだ。

「まず、お客さんたちが倒れたのは、僕らのせいじゃない。それに、あんなに次々とお客様が倒れることなんて、予想できるはずがない。あの状態で、後手に回らず先手を打てる添乗員など絶対にいない。

後から、何を言っても結果論だ。それも、まったく参考にならない後出しじゃんけんの結果論だ。」

急に、熱く主張しだした駒形に、思川は相槌を打つことしかできなくなった。

「お客様が、バタバタ倒れだした時、思川さんも言ったじゃん。『とにかく、全員で無事に帰国しよう』って。このツアーは、2グループ合わせてお客様は31人。添乗員を含めて33人だ。今、このホテルには、そのうち何人いる?」

「・・・え?・・・33人。」

急に振られて、少し慌てながら思川は答えた。

「そうだよ。33人だよ。全員だよ。君が言っていた目標は果たせたんだ。」

「え?」

「それでも失敗なのか?」

「・・・・・・。」

「失敗じゃない。そんなこと誰にも言わせない。多少の文句は言われても、絶対に失敗じゃない。だから、胸を張って帰ろう。」

思川の目が、涙で潤んだ。このツアー中の行動と決断を、パートナーである駒形から、肯定されたことで、何かから解放された気がした。

「そうだよね。私たち、これ以上ないほど精一杯やったし、やれたよね。」

 

少し、心が軽くなった二人は、添乗談義に花を咲かせて、時々笑いを交えて夜遅くまで語り合った。トラブル発生以来、本当に笑ったのは、これが初めてだったかもしれない。

 

もう何も起こらないと、2人とも信じていた。
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