登場人物

 

マスター・ツートン

このブログの筆者。今回は、スイスで倒れたお客様のため、そのご家族のお供でジュネーブに来ている。天使の添乗員になる前、熱血旅行会社員時代のお話。

 

春代さん

フランスのシャモニーで倒れて、ジュネーブの病院に搬送されてきた。くも膜下出血ということが分かり、手術後は集中治療室に入った。

 

貴志さん

春代さんの次男。春代さんが重症のため、急遽日本からスイスに飛んだ。

 

小林さん

現地手配会社のスタッフ。

 

ノイマン先生

春代さんを担当したお医者様。

 

 

「手術は成功です。」

 

ノイマンさんは、話し始めた。ただし、笑顔はない。まだ手放しでは喜べない。成功したというよりも、失敗しなかったというニュアンスのように聞こえた。

 

「発見が遅れたために、かなりの手術時間を要しました。そのうえ、ご年配です。このまま回復されるとは思いますが、今の時点では、まだなんとも言えません。」

 

僕を介して貴志さんが聞いた。

 

「助かる可能性と助からない可能性はどちらが高いのですか?」

 

「全力を尽くします・・・!」

 

静かに、でも力強くノイマンさんは答えた。ここでは、たぶん大丈夫だよ、というニュアンスに聞こえた。母と、少し二人でいたいと貴志さんが言うので、僕とノイマンさんは外に出た。

 

集中治療室の外に出ると、ノイマンさんが不思議そうに尋ねてきた。

 

「あなたは、家族ではないのでしょう?」

 

「はい。私は、旅行会社の者です。浅倉さんに依頼されて来たのです。」

 

ますます不思議そうな顔をしている。うーん・・・という顔をしているので、どうかしたかと逆に尋ねてみた。

 

「いや、先ほど代理人と仰ってましたが・・・日本ではどうか知りませんが、スイスでは、このような場合家族以外の方が、病室に入ることはないんです。私たちには、患者に対して守秘義務というのがあって、病名や症状などは、一切口外してはならないのです。」

 

日本でも似たようなもんじゃないかな、と思いながら、僕が来ることになったいきさつを説明した。僕だって、来たくて来たわけじゃない。

 

やがて、貴志さんが病室から出てきた。

 

「ツートンさん、先生にちょっと聞いていただけませんか?」

 

クールに言いながら彼は質問を始めた。

 

「発見が遅れたのはなぜですか?」

 

「一番の理由は、シャモニーの病院に検査設備が整っていなかったということです。患者さんは、昏睡状態に入る前には、普通に動いていたそうです。昏睡状態に入って、すぐに検査できる状態にあったら、もう少し早く処置できたかもしれませんが、その間に搬送という作業が生じてしまった。」

 

「シャモニーの医師と・・・その、ツアーの添乗員の処置は適切だったのででしょうか?」

 

一瞬だけ、チラッと貴志さんの視線がこちらに向いた。それは僕の目よりも胸にグサッときた。単なる質問だったのだろうが、矛先がこちらに向けられたような気がした。

 

「添乗員が、春代さんをすぐに病院に連れていったから、シャモニーの医師は、異変に気付けたのです。添乗員は、お客さんのことを精一杯気遣ったと思います。シャモニーの医師も、異変を感じてからは、素早い処置をした。適切だったと思います。」

 

「母は、標高3800mの展望台で倒れたと聞いています。高山病で倒れて頭を打ったせいで、クモ膜下出血になったのですか?」

 

「その可能性もありますが、その逆に、突発的にクモ膜下出血を起こしたために、倒れたことも考えられます。今となっては、どちらか判断できません。」

 

「・・・分かりました。最後に、発見が遅れたというのは手遅れということですか?全力を尽くすというのは、助からないけれど、できることはする、という意味ですか?」

 

きわどい表現で、僕も正確に訳せたかどうか分からない。僕にとっても、ノイマンさんにとっても、英語は母国語ではないのだし・・・。ニュアンスを込めるのが難しいので、僕はそのままストレートな表現で訳した。お読みになっていてお分かりだと思うが、貴志さんの質問は、丁寧で細かい。そして、同じ内容の質問を、言葉を変えてしてくる。わずかなブレも見逃さないようにしているようだった。

 

・・・少々の沈黙が流れた。そして、ノイマンさんは、優しく頷いて、落ち着きなさいという素振りを見せた。

 

「手遅れではありません。発見が遅れたというのは、手術時間が長くなった理由のひとつとして考えてください。助かる可能性は十分にあります。今晩中に容態が急変しなければ、回復に向かうと思っています。ただ、かなりお歳を召してますから。何があるか分かりません。今夜は、交代で看護師が様子を見守ることになっています。あなたたちも、長旅で疲れたでしょう?今日は、もうホテルでお休みされたほうがよろしいですよ。」

 

最後のノイマンさんのこたえは、最初に彼が言った「回復すると思うが、まだなんとも言えない。でも、全力を尽くす」という言葉の意味を、十分に説明しているものだった。

 

納得した顔で、貴志さんが僕の方を見た。僕は頷いて、

 

「帰りましょう。何かあったら知らせてくれるはずです。貴志さんも休まないと。春代さんがよくなっても、貴志さんがお体を壊したらなんにもなりません。」

 

「そうですね・・・。ノイマン先生、よろしくお願いします。」

 

「お二人とも、明日は朝9時に来てください。ここからは、家族の方の協力が必要なんです。」

よく分からずに、はい、と返事をして僕らは病院の出口に向かった。

 

小林さんは、ずっと集中治療室の前で待っていた。僕らと出口に向かった彼女は、震えているように見えた。待たせてあったタクシーに乗ってホテルに向かった。チェックイン後、先に貴志さんには休んでもらい、僕は、小林さんと少し話をした。

 

「お疲れ様でした。案内をありがとうございます。助かりました。日本から電話した時は、いろいろキツイこと言ってすいません。もっと・・・そのベテランの声のように聞こえたもんだから・・・。」

 

「はい。声が低いせいで、電話ではよく30代に思われるんです。・・・本当に、気がきかなくてすいません。土曜日で、スタッフもあんまりオフィスにいなかったので・・・。本当にごめんなさい。ツートンさんは、何ひとつひどいこと言ってません。私が全部悪いんです。」

 

詳しく聞いてみると、彼女はまだ23歳だった。短大を卒業して、こちらへ旅行でやってきて、その時に知り合ったスイス人男性と仲良くなり、その後結婚してこちらに住んでいるのだそうだ。旅行の仕事は、まだ初めて1年経っていないという。

 

あの若さで1年経っていないとしたら、その仕事ぶりは立派なものだった。経験不足のせいで、要領が悪いのは仕方ないが、ガッツあふれる仕事ぶりだった。ずっと半泣きだった彼女もまた、今回のトラブルに振り回されながら、春代さんのために頑張ってきたのだと思うと、逆に感謝の気持ちがわいてきた。

 

「今日も遅くまで対応していただいてありがとうございます。今後もよろしくお願いいたします。」

 

こんな簡単なお礼と、深夜の割り増しチップくらいで、彼女がどれくらい報われたろうか。でも、その翌年にスイスに行ったときには、まだ彼女が同じ会社で働いていたことを知り、嬉しかったことを覚えている。

 

 

翌朝は、7時に起床。貴志さんとホテルで朝食を取って、市バスで病院に向かった。着くなり、春代さんのいる集中治療室へ向かうと、すでに、ノイマン先生と、看護師はスタンバイしていた。

 

「おはようございます。貴志さん、ツートンさん。お母さんは元気ですよ。脳波に異常なし、脈も呼吸も正常です。」

 

明るい声で、先生は言った。

 

「あとは、みんなで、お母さんをこっちに呼び戻してあげましょう。さあ、貴志さん、お母さんの手を握ってあげてください。」

 

貴志さんは、春代さんの手を優しく握った。するとノイマン先生は、もう少し強くてもいいと言った。

 

「さあ!お母さんに声をかけて、大きな声で、さあ!」

 

力強く、ノイマンさんが促した。

 

「呼びかけるって・・・文字通りの呼びかけですか?」

 

貴志さんが僕に確認してほしいと頼んできたので、僕は、ノイマン先生に確認した。

 

「そうみたいですよ。気絶してる人に声をかけて起こすようなニュアンスみたいです。」

 

「なるほど。そういうことですか。」

 

ノイマン先生が、その意図を説明したくださった。

 

「以前は、くも膜下出血などの手術後は、絶対安静がいいと言われていましたが、今の医学では違うのです。春代さんのように健康なら、話しかけて脳を活性化させるのが、回復への近道だと信じられています。さあ、声をかけましょう!」

 

「お母さん!聞こえる?お母さん!!貴志だよ!!」

 

春代さんを呼び戻すべく、貴志さんの必死の呼びかけが始まった。


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夏、冬。夜明け、昼間。ツェルマット、ゴルナーグラート。様々な季節、様々な時間帯と場所から眺めたマッターホルン特集。
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