登場人物

 

マスター・ツートン

春代さんの回復を、心底喜んだ熱血旅行会社員。将来の自称天使の添乗員

 

春代さん

旅先で、くも膜下出血で倒れるが、ジュネーブの病院に入院後、劇的な回復を見せる。

 

貴志さん

春代さんの次男。重症な母親のため、日本から駆け付けた。

 

ノイマン先生

丁寧な治療とアドバイスで、僕らの絶対的な信頼を勝ち取る医師。貴志さんが男性でよかった。女性なら、間違いなく恋に落ちている。というくらいのイケメン。

 

 

小野さんは、思った通り朝6時1分に電話をかけてきた。僕は前の日の晩は、レポートを早めに仕上げて東京に送り、10時前には就寝したから、かなり疲れが取れており、結果的にいいモーニングコールだった。

 

「おお!ツートン!よかったなあ。」

 

彼は、僕のレポートを読んだうえで電話をくれていた。春代さんの回復は、部署内で共有されていたようで、雰囲気も明るかったらしい。一方で、医療通訳の手配に保険会社がとまどってることについては、

 

「まあ、バカンスシーズンは、日本のお盆みたいなものだから。」

 

と、僕と同意見であると同時に、

 

「一番観光客が多い時に、みんながバカンスってのもおかしな話だよな。」

 

と、不満を言った。なにはともあれ、「お客様第一」ということで、貴志さんが「もういい」と仰らない限り、医療通訳が派遣されるまではご一緒するようにという指示を受けた。

 

この日は、ジュネーブ滞在の3日目の火曜日。春代さんは、さらに回復した。貴志さんの手を握り返す様子が、傍から見ていても力強くなっているのが分かる。

 

「もう心配ない。」

 

誰もがそう思った夕方にはうっすら目を開けた。そして、なにか小さな声で呟いた。ノイマン先生が、何を言ったのか気にしている。

 

「どうしたの、母さん!頭が痛いって言ったの?そうだったら手を二回握って。」

 

春代さんは二回、貴志さんの手を握った。

 

「母さん、頷ける?」

 

これは、医師の許可を得ていない貴志さんのアドリブだった。でも、ノイマン先生は止めない。むしろ、できるかどうかを確かめるように、身をぐっと乗り出した。

 

春代さんは、小さく頷いた。そして小さなあくびをした。

 

ただのあくびだ。でも、それがどんなにその場にいた人たちの心を、ほぐしたことだろう。

 

ノイマンさんは、拍手で祝福した。

 

「春代さんは素晴らしい!よし!!明日、集中治療室から一般病棟に移しましょう。」

 

貴志さんは、破顔一笑でノイマンさんの方を見た後、春代さんの手を両手で握ったまま、祈るような仕草を取り、しばらくそのままでいた。きっと母の無事を、心から感謝していた。

 

周りの人間が静かに見守る中、貴志さんは手を離して立ち上がった。時計は午後の5時を回っている。

 

「今日はもう終わりですね。ツートンさん、帰って乾杯しましょう!紹介したい友人がいるんです。」

 

貴志さんには、ジュネーブ在住の友人がいた。高校と大学を通しての親友だそうだ。日系の企業の人かと思いきや、有名な国際機関のひとつだった。国連機関を含めて、ジュネーブには15以上の国際機関があるが、その中の有名どころのひとつだった。

 

「それほど大切なお友達とお会いになる時に、僕がご一緒したら邪魔なのでは?」

 

「いや、向こうも会いたがってるんですよ。そんな親切な旅行会社の人だったらいろいろ話を聞いてみたいって。」

 

忘れていたが、貴志さんたちは、首都圏でも有名な進学校を経て、一流国立大学を卒業したエリートだった。役人や国際機関の職員などが、当たり前のようにOBにいらっしゃる人たちの集まりだ。そう考えると興味がわいてきた。日本にいたら住む世界が違う人たちだったから。

 

果たしてご一緒させていただいた時間は楽しかった。テレビドラマや映画で見るエリートは、えらそうな人が、えらそうに、えらそうな会話を皮肉たっぷりに話す。

 

本物のエリートは(少なくとも彼らに限って言えば)、えらそうな話を、いい意味で普通に話す。会話のテンションで言えば、普通のサラリーマンが「あそこの部長はいい人だけど、課長はムカつくよな。一番よかったのは、受付の女の子だよな。かわいかったなあ。あ、帰りに一杯いかない?うまい焼き鳥屋みつけたんだよ。」というテンションで国際政治について話す。

 

勉強したことを、力をこめて話すのではなく、自然に話す。つまり、とても聞きやすい。僕は、必死に彼らの話を記憶した。間違いなく自分の仕事に役立つと思ったからだ。少なくとも、当時の自分の勉強ではたどり着けない内容だったから余計に楽しかった。

 

お二人が話した後は、僕にも喋らせる。話し上手な二人は、聞き上手でもあった。スイスの観光事情や周り方、そのほかの国々の観光地について、そして、なにより添乗員の仕事に興味を示した。訊かれたことには全てを話したあと、

 

「面白いですか?」

 

「面白いですねえ。現場に立ってる人の話って興味深いです。でも、やはり・・・仕事ですね。華やかで楽しそうに見えても。」

 

「そりゃそうですよ。」

 

「いや、それでも、いろいろなところに行けていいなあ・・・とは思ってしまいますね。我々一般人は。でも、あれですね。隣の芝生は青いですね。」

 

「そうですね。僕から見たら、役人や国際機関の職員なんて、やりがいの塊のような仕事で、うらやましいけど。でも、これを言ったら、『隣の芝生が青い』って言われますね()

 

「そりゃそうだ()

 

この会話の中の「隣の芝生は青い」には、「そんなに甘くない」や「そんないいことばかりではない」、という意味合いだけでなく、お互い自分たちの仕事に対して「やりがい」が含まれていたと思う。例えば、添乗員を含む旅行の仕事のやりがいは、必ずしも「いろいろなところに行ける。様々なものを見られる」というとろにとどまらない。そこだけを見られると、確かに「隣の芝生は青い」で終わる。僕らの仕事の真の面白さは、その先にある。

 

楽しい夜だった。貴志さんには、現地の友人を紹介していただけたことで、間違いなく信頼していただいてると確信した。

 

部屋に帰った僕は、日本にレポートを書いた。

 

春代さんの劇的な回復具合。次の日からは、いよいよ医療通訳が派遣されるといった報告のほか、そろそろ僕の役割が終えてきているのではないか?などの意見も添えた。

 

そして、朝六時まで寝ることを、最後に太字で書いて送信した。

 

友人と貴志さんを交えた三人の会話内容は、ここでは細かく書かない。自分の言葉に変えて、スイスのツアー時に、バスの中でのネタに使わせていただいているから、その時にでもお話ししよう。非日常の苦労で手に入れた知識なので、安売りはしたくない。

 

僕の案内でスイスを旅されたら、必ず聞ける話なので、それまでのお楽しみということで。

 

あと二話。このシリーズは続きます。

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ウェンゲンという街の同じ場所から異なる時間に撮影したユングフラウ。一枚目は夜。左上に見える光は月。iPhoneで撮影すると、実際よりも明るく写る。
二枚目は、日の出直後に赤く染まったもの。

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標高が高いスイスにもブドウ畑がある。上がレマン湖畔。下がヴァリス州。ツェルマットからローヌ谷に出て、フランス方面に進んでいくと見える。