登場人物

 

マスター・ツートン

スイスで倒れたお客様の家族の渡航を助けた熱血旅行会社員。後の自称天使の添乗員。

 

春代さん

旅行先で倒れたが、見事に回復。でも、重症には変わりない。まだまだ要安静。

 

貴志さん

春代さんの次男。母親の危機に日本から駆け付けた。

 

ノイマン先生。

イケメンのジュネーブの医師。うっかりドイツ系の仮名をつけてしまったが、フランス系のスイス人。

 

保険会社の方

親切にいろいろ教えていただきました。やはり保険は大切ですね。

 

 

ジュネーブに来て4日目、水曜日。

 

またもや、朝6時1分に小野さんから電話がかかってきた。

春代さんの回復、医療通訳の派遣など、状況が改善されたのであれば、僕は帰国してもいいだろうということになった。翌日木曜日の便に空きはなかったが、金曜日には空きがあるということで、とりあえずそこで席をおさえた。「タイミングを見て、帰国のことを申し出るように」ということになった。

 

この日の午前中、春代さんは集中治療室から一般病棟へ移されることになっていた。その作業があるから、僕らの“出勤”は午後からだとノイマン先生に指示されていた。

 

貴志さんと二人で相談して、この日の午前中は自由行動にした。彼もゆっくりしたかったことであろう。だが、いきなり朝食のレストランでばったり会ってしまう。あえて、離れたところに席をとって食べていたのだが、なんだか、こちらの方をちらちら見ている。

 

気になるので声をかけた。すると、

 

「あの・・・観光行きませんか?」

 

「え?」

 

「いや、どっか連れてってくんないかなぁ・・・。母親はだいぶよくなったし、ちょっと息抜きしたいというか・・・ねえ、だめですか?」

 

そう言った彼の手にはガイドブック『地球の歩き方』があった。ニヤっとした僕を見て、

 

「いや、もし一人で来ることになったらさ、公共交通機関の乗り方くらい覚えなきゃって思って・・・、空港で買ったんです。これしかなくて。」

 

照れくさそうに言い訳している。おそらく、その理由は本当だろう。あの状況で、観光用にガイドブックを買う人なんていない。

 

「いいですよ。ご案内しましょう。」

 

昨日の春代さんの手を握って、祈るような仕草をしている彼を見たら、それくらいは案内してもいいと思った。ジュネーブは、観光地としては、大したところではないが、大きなレマン湖に面している。幸い、ホテルは町のど真ん中。移動には便利だった。

 

徒歩とタクシーを組み合わせて湖畔を案内した。午前中の日差しが気持ちよい。

 

やがて、湖を眺められるカフェに腰を下ろす。

 

「うーん・・・。きれいだなぁ・・・。母はなんでこんなきれいなところで倒れたんだろ。ねえ?」

 

貴志さんは、手元ににあるレマン湖周辺の地図を眺めていた。

 

「あれ?Evianて地名があるけど、これってミネラルウォーターのエビアン?」

 

「そうですよ。フランスでは有名な高級リゾートです。」

 

「あ、そうか。反対側はフランスか。」

 

この滞在中では初めて、スイスの日差しを浴びて空気を味わったあと、ランチを食べて午後、病院に向かった。

 

春代さんは、広々とした、陽あたりの良い病室で寛いでいた。体を起こして、外の緑を眺めていた。昨日よりも大きく目を開けている。

 

大きな部屋に、他に患者は一人。VIP待遇のようだ。

 

「ここはね。集中治療室に準じた部屋なのです。何かあっても患者を動かさないで、集中治療室並みの機器を運んでこれます。」

 

看護師が説明してくれた。

 

春代さんがこちらを見た。

 

「タカ・・・シ・・・」

 

貴志さんの名前を呼んだ。

 

「何?どうしたの、母さん!」

 

駆け寄る貴志さん。すると春代さんが、

 

「バナナを・・・食べたい・・・。」

 

僕が看護師に声をかける前に、貴志さんは、「バナナ・プリーズ!いや・・・バナーナ・プリーズ!!」と、自分で看護師にバナナを頼んだ。(なぜかバナナはそこにあった)彼女が持ってきたバナナを、すぐに自分の手に取って皮をむき、春代さんの口元に持っていった。ようやく口を動かせるようになったばかりの春代さんが、バナナを丸ごとかじれるわけないのに。

 

看護師さんも、同じことを思ったようで、クスクス笑いながら、ナイフでその場で輪切りにして皿に盛ってくれた。貴志さんは、それを小さなフォークで、丁寧に春代さんの口に運んだ。春代さんは、ゆっくりとバナナを味わっていた。

 

「おいしい?母さん、おいしいだろ?」

 

「ん・・・甘くない・・・。」

 

「あ・・・甘くないってなんだよ!バナナはバナナだよ!!」

 

貴志さんが大きな声で言った。看護師がびっくりして、何を話しているのか僕に聞いてきた。バナナが甘くなくて、文句を言ったのを、貴志さんが叱ってると伝えたら、苦笑いしながら、

 

「次は、甘いおいしいバナナを持ってきますね、春代さん。」

 

と謝っていた()

 

バナナの文句に対してムキになっている貴志さんを見て、これがいつもの親子の会話なのか。ようやくいつもの親子の会話が少しできるようになったんだと、ちょっと感動した。

 

親子水入らずで、過ごしていただこうと思い、僕は病院を出て保険会社に電話をかけた。

 

今後の手続きについて、説明を受けたかった。優しく、事務的に説明してくれた。事務的と言うと、聞こえは悪いが、この場合はとても大切なことだ。サービスの内容を正確に把握するには、感情をこめずに、事務的くらいがよい。

 

「まず、航空券は弊社で用意します。今、取ってあるお客様の元々のチケットは、破棄していただくことになるでしょう。」

 

患者の搬送を決定するのは、主治医、つまりノイマン先生だ。移動させても大丈夫だと判断できるようになったら、条件を保険会社に提示する。「まだ決定事項ではありませんが」との前提で、保険会社の方は話してくれた。

 

今回のパターンだと、まず、患者が完全に横になれる座席が条件になるという。そして医師と助手それぞれの座席、必要な医療機器を置けるスペースがあるかどうか、そしてそれらを使って作業できるするスペースがあるかどうか。乗り換えの時の空港の設備や手順に問題はないか。

 

このような条件を満たす航空会社を保険会社が探して、医師と話し合いながら、より良い条件で搬送が実現するのだという。

 

なるほど・・・つまり、ここから先は、それぞれのスペシャリストがいるわけだ。

 

ついでに、スケジュールが埋まっていた医療通訳は、この日の午後から来る予定であったが、仕事が伸びて翌日の午後から来ることになった。日本人で、医療通訳のライセンスを持つ人間が、ジュネーブに住んでおり、ようやく来てくれる。

 

これらの流れは、僕の役割が終わったことを意味していた。

 

それにしても、旅行保険てすごい。ここまでやってくれるのだ。せっかくだから、スイスから搬送されたその先のことも述べておこう。日本に到着すると、保険会社が契約している病院に搬送される。成田で待っている車も医師も、すべて保険会社が手配してくれる。その後、本人が希望すれば行きつけの病院に移れる。

 

「いやあ。まさにいたれりつくせりですね。お忙しいところ申し訳ありませんが、もう少し教えていただきたのです。」

 

春代さんは、高齢であることと、持病があったため、傷害・疾病の治療費は未制限で設定できず、3000万円までとなっていた。

 

「シャモニーからジュネーブの搬送でしょ。集中治療室の利用と・・・その後の病室もかなり・・・。それから日本への搬送もかなりかかりそうですよね。3000万でおさまるんですか?」

 

「どうでしょうかねえ・・・。」

 

「その場合はどうなるんですか?」

 

「他に入ってる保険がありましたら、それで補填することができます。」

 

「クレジットカードとか?」

 

「そうです。もし、オーバーしてしまった場合、補填の手段はこちらからご案内します。今の時点ではまだお知らせしないでください。」

 

なるほど。いろいろ便利にできている。それにしても、もし、今回のケースで保険に入っていなかったことを考えると、ゾッとする。

 

「普通の方には、支払いは難しいでしょうねえ・・・。」

 

僕は、入社してすぐの研修を思い出していた。確か、旅行保険についても習った気がする。

 

「保険は任意だけど、君たちが海外旅行に行くときは必ず入れ。入らないで渡航して、もし重症になったらむしろ死んだほうがいい。生き残ったほうが、家族が不幸になる・・・そういう状況は保険なしだとありえるから。」

 

入社当時の乱暴な教えが、この時は重く心に響いていた。同時に、4年前にお客様がモロッコで亡くなり、その遺体搬送に向かった時のことを思い出していた。

 

保険の有無による差というものを、書面でのお勉強ではなく、僕は現場で実感していた。

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ツェルマットからゴルナーグラートに列車で上がり、その下にあるローテンボーデン周辺を歩く。湖畔ではマッターホルンの他に、モンテローザなどの映り込みも見られる。