登場人物
N美
いよいよ特訓が始まった。この日は、立ちっぱなしのトレーニングに、涙を浮かべながら堪えた。
マスター・ツートン
逃げなかったN美はえらいけど、この状態から逃げなかった自分も、少しはえらいと思っている今日この頃。
マネージャー
まさか本当にN美を教えるとは!と驚いていたが、教え始めた頃の厳しさには、もっと驚いていた。
社長
上に同じ。この日、特訓の様子を一番気にしていたのはこの人。
営業くん
高校までサッカー部だっただけあって、礼儀には厳しい。僕にも、いつだって礼儀正しかった。
この年の年末年始の仕事は、アルゼンチンとブラジルだった。イグアスの滝で、激しい水しぶきとマイナスイオンを浴び、リオデジャネイロでは、コルコバードの丘とコパカバーナビーチで美しい海を目に焼き付けて、ツアーを通して美味しいビーフを食べまくって帰国した。なんだかとても順調なツアーで、帰国までずっと、頭の中でサンバが鳴り響いていたような気がする。
家に帰ってからは、2日後に控えたN美との二度目の研修のことを考えていた。とりあえず、初回から二週間あった。与えた課題は、再集合の案内をすらすら言えるようにすること。それほど難しくはない。たかだか3~4分の案内を言えるようにするだけだ。一日一回練習するだけでも上達する。十分な時間はあった。
一方で、もし、進歩した様子が見られなかったら、これ以上続けるのはやめようとも思っていた。
待ち合わせ時間になり、N美がオフィスに入ってくると、僕の傍にして座って挨拶してきた。
「よろしくお願いします。」
「・・・(新年の挨拶しろよと思いながら)あけましておめでとうございます。」
「あ・・・おめでとうございます。」
「N美さん、今年会社来るの初めて?」
「え?はい、そうですけど。」
「じゃ、社長と内勤の人にちゃんと新年の挨拶をして来て。常識だから。」
「・・・・・・はい。」
N美は、まるで反抗期の中学生のように「かったるい」というような態度で(本人がどう思っているかはともかく、僕にはそう見えた)挨拶に回って戻ってきた。初期のN美には、社会人になってから2年近く経っているとは思えないような非常識さが目立った。その理由は後から分かってきて、少し指導法を変えるのだが、この時は、ただの「ゆとりな非常識」だった。
さて、挨拶を終えて、新年最初のレッスンだ。非常識な態度とは対照的に、彼女の再集合の案内は、年末時よりも遥かに上達していた。所々つっかえるし完璧ではないが、案内としては成立していた。
「よし、次は立ち上がって本番を想定してやってみよう。」
僕は、N美をオフィスの中で立たせて同じことをさせた。
ここで、当時の派遣元のオフィスの構造を知らせておきたい。下の写真の通りだ。
部屋の奥行きは、おそらく12~13ⅿほど。幅が7~8ⅿくらいか。写真の見取り図よりは多少細長かった。入ってすぐにコピー機があった。添乗準備のためのコピーは、無料でし放題。そのすぐ奥は、添乗員の作業スペースになっていて。長いテーブルが3つ並んでいた(見取り図には4つ書いてしまったが間違い)その奥は、内勤者用のデスクがあった。全部で6席あったが、スタッフは4人。残りのデスクのうち、一つは添乗員の席が足りない時に使われたり、時々雇われる短期のアルバイトが利用したりした。もう一つには、添乗員用のパソコンが備え付けられており、皆で交替で利用した。一番奥には社長席があり、社長様が魔王のようにかけており、窓の傍には応接用のテーブルがあった。接客、会議、内勤の人たちのランチやテーブルが足りない時は、ここでレクチャーも行われた。また、添乗資料は、本棚にたっぷり入っていた。
なお、入って右側から社長席の背後までは、全部足元近くから天井すれすれまで窓だ。オフィスは10階にあるから、隣にビルがあっても、そこそこ景色はよかった。右奥のスペースからはスカイツリーも眺めることができた。はっきり言って、ドラマに出てくるようなシチュエーションで、みんな満足していた。よその派遣元から移籍してきた人は、まずこの環境に、声をあげて喜んだものだった。
オフィスは、ワンフロアぶち抜きで一部屋だけ。他には使えるところはどこにない。つまり、N美が立ち上がって、本番を想定して再集合のトレーニングをする時は、ここでやらなければならなかった。会議室などないのだから。
写真の中に書いたAかBに立たせてやることが多かった。社長がいて、内勤スタッフが皆いて、時間によっては添乗員の出入りが多い。N美は、添乗員トークのトレーニングをこういう環境で行った。普通の会社で言ったら、若手社員に初めてのプレゼンの練習を、大勢の社員がいるオフィスの中でやらせるようなものだ。これは精神的にかなりプレッシャーだったと思う。いろいろとうるさい今なら、やり方によってはパワハラにだってなりかねない。
だが、ここしか場所がないのだから仕方ない。この日はAの場所に立たせて、再集合の案内をやらせた。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「あー!待て。早口過ぎる。早く終わらせようとするな。聞き取れなかったら、何度でもお客さんから同じことを質問されるぞ。最後まで丁寧にやれ。最初からやり直し。」
「ほら、また同じところで噛んだ。どうして同じところで間違える?自分で書いたものを読んでるんだろう?ノート見せろ。・・・ここで間違えるんだから、マークしておけ。それと全文を、こんなにつなげて書いてるから、一度目を離すと、どこに視線を戻すか見つけられないだろう?次からはその辺を考えて書け。」
「はい。また同じところで噛んだ。最初からやり直し。」
この日は徹底的に追い込んだ。この状況に慣れていない内勤の人たちは、時々こちらの様子を伺っている。オフィスにやってきた添乗員たちも「なにが起こっているのか?」という感じで観察していた。時計を見ると、一時間半経っていた。彼女はその間、ずっと立ちっぱなしで同じ案内の練習を続けて、しかも最後までたどり着けないでいた。
この環境だ。集中しにくいのは分かる。でも、練習場所はここしかない。これに慣れるしかない。慣れていきながら、与えた課題をできるようにもしなければいけない。
必死にやっているのは分かる。集中力が少しずつ高まり、だんだん研ぎ澄まされているのも分かった。たどたどしい部分はあるが、たった90分で格段によくなっていた。それから15分ほどして、ようやく最後までたどり着けた。
「よし!10分休憩。そのあともう一回やるよ。」
「まだやるんですかー・・・。」
「やるよ。嫌ならやらなくてもいいけど。そのかわり、もう二度と教えない。」
「・・・・・・やります。」
10分休憩後に始めると、N美は、またもや、この日何度も間違えた場所で噛んだ。さすがに疲れてきたのか、そこで止まって少し涙ぐんでいる。
「N美、ノートを閉じて。」
「え?」
「ノートを閉じて。もう一回やり直し。」
「・・・え?でも・・・」
「ここ数回はノートをほとんど見てないじゃん。疲れてきて目が文字を追えてない。うまくできてないところだけ文字を追おうとするから、余計に間違えるんだ。ほとんど見てないってことは、もうこの案内は、君の頭の中に入ってるんだよ。」
「そうかなあ・・・。」
「そうだよ。読んで声を出すってことは、目で追う作業と、声を出す作業を両方やってるから、これは疲れるよ。内容が頭に入ってれば、声を出すだけのほうが楽だよ。やってごらん。」
手元にノートがない不安のためか、うまくできたものの、少し間違えた。
「もう一回やってみよう。せっかくだから、できるようになって終わろうよ。」
顔にはっきりと疲れが出てきたN美。でも、最後に踏ん張り、ようやくノーミスでやり切った。
「よし!完璧。今日はこれで終わり。どう?初日のグループの動きが、自分の頭の中で整理されてるのが分かる?」
「・・・なんとなくわかります。」
「なんとなくか(笑)。それと、こういうのは続けてやったほうがいいんだ。明日も来れる?」
「明日もですか・・・」
力のない声を出したうつむくN美。
「そう。明日。だめなら僕が添乗出た後だから2週間後になる。」
「2週間・・・・・・じゃあ、明日来ます。」
「こら!『明日もお願いします』だろ!」
営業くんが突っ込んだ。まあ、今は疲れてるし大目に見よう。これだけ多くの人に見られながら、しかもあれだけダメ出しをされながら、二時間乗り切ったのだから。
N美はこの日、真っ白な灰のように燃え尽きて帰っていった。
彼女がオフィスを出てすぐに、社長が僕に突っ込んできた。
「お前、厳しいなあ。」
「うーん。厳しいですねえ・・・」
マネージャーが同意した。
「明日もって、あいつ明日来るかなあ?泣いてたぞ。」
社長が心配している。マネージャーは苦笑いしていた。
「来なかったらそれで終わり。でも、来ますよ。」
かなり疲れて大変な思いをしたことは間違いない。でも、少しは自分ができるようになった実感はあるはずだ。それに、前年あれだけ干された状態だったにも関わらず、派遣元を去らなかったくらいだ。そこまでして添乗員をやりたいなら、今の状況は、これまでに比べて相当マシだと感じているはずだった。
翌日、N美は、前日よりも少し緊張した表情で現れた。
やはり来た。今考えてみると、最初に見つけた彼女の取り柄がこれだった。時々弱気なところはあるが、彼女は決して逃げなかった。
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カッパドキアのウチヒサール
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