登場人物

 

N美

惜しかったなあ。本当に惜しかったなあ。うっすらと涙を流すくらい悔しかったよなあ。そして、涙の後はロマンスだよな。

 

マネージャー

めずらしく、N美を全面的に庇った。彼にそう言わせるくらい、この時のN美は頑張ったのだ。

 

チバ子

おめでとうございます。またいつか、添乗の現場に戻っておいで!

 

T子

え?グアテマラ?お前さん、いつの間に!

 

マスター・ツートン

N美物語も、あと数話。勝手に感慨にふけっている、中年休業添乗員。それでも自称天使です。

 

 

N美は、ツアーそのものは無事にこなした。お客様たちも存分に旅行を楽しまれたようだった。

 

だが、最終日に致命的なミスを犯してしまった。帰りの機内でお客様にご記入いただくアンケートをお渡しできなかったのだ。通常、アンケートは最終日に、最後の飛行機に乗る直前などにお渡しして記入したいただき、日本到着直前に回収する。しかし、この日、N美は肝心なアンケートを、スーツケースに入れっぱなしにしたまま、現地の空港で預けてしまった。

当然、機内でお渡しすることはできず、日本到着後にスーツケースから出してすぐに渡し、帰宅してから郵送していただくことになった。

 

結論から言うと、この時点でかなり厳しい状況となった。お客様が書かれるアンケートには、大きく分けて3種類ある。

 

1.  旅行に満足されて、その理由が事細かに書かれているもの。

2.  多少の評論も含めて、ご本人が感じた違和感、不満、ご意見などが書かれているもの。

3.  適当に、5段階評価にチェックだけを入れているもの。

 

1と2については、本当に参考になる。旅行の企画や添乗員のサービスの在り方について、的確な意見(良いものも悪いものも)がよく見られるし、反省だけでなく、自信の源になるものもここに多い。間違いなく、添乗員が育つ要因になっているし、ツアー改善にも役立っている。

大半は3つめのタイプだ。3のタイプのアンケートは、5段階評価で、だいたい高いところにチェックが入っている。「旅行を楽しめました。文句はありません。さっさと書いて、機内では寝て、映画を楽しみます。」みたいなところだろうか。

念のため申し上げるが、どのタイプでも、アンケートは提出していただければありがたい。たとえ、それが問題点やクレームであっても、企画担当者に現場での様子を報告できる。3のタイプの方も、満足しているかそうでないかが数値で分かるから、その点では安心できる。

アンケートを提出されず、現場でも何もおっしゃらず、帰国後になにか仰るパターンが一番怖い。添乗員にとって、その問題点が自分に関わりないことでも、ツアー中に把握できなかったことにはショックを覚える。

だから、僕は、必ずお客様にアンケートの提出を促す。良い悪いだけの問題ではないのだ。もちろん良い内容に越したことはないが、すべてを把握しておきたい気持ちが一番強い。そして、全員分を回収するには、日本に到着するフライトの中でないと難しい。タイプ1と2の方々は、アンケートに思い入れがある方なので郵送してくれることが多い。タイプ3の方々の多くは、思い入れなど皆無で、郵送してくださらない確率が高い。

いやらしい言い方だが、添乗員の成長のために必要なのがタイプ1と2だとしたら、添乗員がポイントを稼げるのがタイプ3なのだ。N美は、しっかりと仕事をしながら、そのポイントゲッターを失ったのだった。

 

このツアーでも、全アンケートの回収は叶わず、郵送されなかったものが多かった。ツアー全体の評価としては、悪くないどころか、むしろ高評価だったが、それほど人数が多くないツアーで、比較的厳しいアンケートが届くという現実が、彼女のランクアップを阻んでしまった。

 

これで、圧倒的に規定数値が届かないというのであれば仕方ない。しかし、足りないのは本当にわずかだった。

昇格の条件は、アンケートで5段階評価のうち、5の割合、そして4と5を合計した割合が、それぞれ規定以上であることだった。このうち、4と5を合わせた割合は条件を満たした。5の割合がわずかに・・・はっきり言うと、人数であと一人足りなかった。半年間、250人以上のお客様を案内した中でのたった一人だ。

 

「もったいないなあ・・・。」

 

集計が確定したデータを、マネージャーのデスクで見た僕は、うなだれた。最後のツアーできちんとアンケートを配布していれば、おそらくクリアできた内容だったのだ。

がっかりしている僕を、マネージャーは少しの間そっとしてくれた後、その場にいないN美を庇うように話し始めた。

「今シーズンのN美は、数字以上によくやったと思うよ。少なくとも、これまででは最高だった。俺はほめてあげたい。最後のアンケートの配布ミスは馬鹿げてるから叱るけどさ。全体的な数字と、仕事の内容は、手放しでほめてあげようと思う。」

「まあ・・・確かに。よかったね。」

「ランク1と2は、なるのも難しいけど、それをキープするのも大変だからね。中には、それをキープするために仕事がおかしくなる人もいるし、キープできずに落ちて、そのショックで能力を発揮できなくなってしまう人もいる。俺の考えなんだけどね、N美は、もし上がってもランク2でいられ続けるのは、難しかったんじゃないかな。将来的には分からないよ。今は、難しかったと思う。とりあえず、最高の結果を残したってことでいいじゃん。ほめてあげなよ。」

 

マネージャーの言ったことは最もだった。ランクアップを逃したとはいえ、N美の今期の成績は、これまでの水準を大幅に上回っていた。残念がる前に、まずは褒めてあげなければいけなかった。それなのに、僕は、N美と会った時に思わず言ってしまった。

「惜しかったなあ・・・。もったいないなあ・・・。」

N美は、少しがっかりしたような顔を見せた後、うつむいて、そして顔を上げた。

「マネージャーには、『アンケート配布のミスなんかしやがって』って叱られました。でも、今までの中で最高だったって、褒められもしましたよ。」

「確かに、全体的にはとてもよかったな。」

「それで、言われました。『今のままだと、もし上がってもキープは難しい。また実力をつけて挑戦すればいい』って。」

「そうだね。」

「でも、私、また取れるのかなあ。今期みたいな添乗、またできるのかなあ・・・。」

「・・・N美?」

「・・・もし、キープできなくても、すぐに落ちるとしても、一度はランク2に上がりたかったなあ。せっかくここまで来たのに。・・・ツートンさん、ごめんなさい。期待に応えられなくて。」

彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。そうだ。一番悔しかったのは、N美なのだ。こんな時に限って、気が利いた労いの言葉が見つからない。でも、この時は、「来期は頑張ろう」と言うよりも、今期の頑張りをほめてあげたい気持ちでいた。

 

2018年と2019年は、派遣元の中で、特に僕の周りでは、様々な動きがあった。

派遣元でも1、2を争う実力派のチバ子は、妊娠が発覚して添乗の現場を去った。

T子は、英語の他にスペイン語を身につけたいということで、グアテマラに旅立った。これについては、次回、少し書きたいと思う。

 

僕はまだ気づいていないが、N美にも変化があった。10月の中旬、オフィスに顔を出すと、これまでほどんど関わり合いがなかった内勤の男性から、「もしよかったら」と、小さく畳んだメモを渡された。広げてみると、そこには彼の連絡先が書かれていた。

 

次回。