駆け寄ってきたのは、マダムの4人組だった。そして、全員がガイドさんに向かっていった。

「おつかれさま!こんな時間まで本当にありがとう。」

「あなた、おうちはアルルなんでしょ?帰れるの?」

彼女を優しく労う声が、次々と聞かれた。ちょっと前までお客さんを悪く言っていたガイドさんの顔は、少し困惑しているように見える。僕は、その場にいたお客さんを目で数えた。18人。お帰りになったのは2人だけだった。

「なんだか、あなたたちに悪くて帰れなかったんだよ。親子が一組お帰りになりましたけどね。お母さんが高齢だから仕方ないよ。」

年配夫婦のご主人が教えてくれた。他の方々も、疲れが顔に出てはいたが、にっこりととほほ笑んでくれた。

4人組は、まだガイドさんを元気づけるように、いろいろ話しかけていた。

「あれ?あなたその顔・・・(僕をじろっと見て)ひょっとしてあの人に泣かされたの?」

「ええっ・・・・!?」←ツートンの心の叫び

「いえ、そんなこと・・・。」

「ごめんねえ、あの人も頑張ってるんだけど、フランス語できないみたいで、フランスにいるくせにさあ。あなたにご苦労けちゃったわね。」

そう言ってから、ズンズン僕に近づいてきた。

「え・・・?・・・な・・・泣かしてませんよ!!」←本気で動揺している

「分かってるわよ。冗談よ!」

マダムは、そういって僕の胸をバシッと叩いて、今度は小声で尋ねてきた。

「ねえ、こういう時って、チップあげなくていいの?」

「旅行代金に含まれてますからね。そこから払ってるから、お客様から出していただく必要はありません。今回のように、余計に働いていただいた分も、きちんと払ってますよ。」

「あんたが自腹切ってるんじゃないの?」

「それは絶対にありません。」

「あ、そう。・・・・・・・でも、差し上げてもいいのよね。」

「それは構いませんよ。」

「ありがとう。」

彼女は、サッと仲間のところに戻っていって、「差し上げていいって。」と言うと、別の方が、白い封筒をガイドさんに差し出した。彼女は驚いて、最初は遠慮した。正直、あまりスマートなチップの渡し方ではない。注目されている中で、お金と分かるものを手渡そうとしているのだから。困っているガイドさんが、僕と目を合わせてきたので、「受け取って」という合図をして、ようやく落ち着いた。

別の数人が、僕のところにやってきて尋ねてきた。

「チップあげないとだめなの?」

「会社で払ってるから必要ありません。みなさんの旅行代金に含まれてます。」

「失礼だけど、あの方たちは出過ぎなんじゃないの?チップって、相場があるって、いつか別の添乗員さんが言ってたよ。」

「相場はあります。確かに普通の観光で、『好感が持てた』とか、『若いのに一生懸命やってた』くらいの理由で、お客様から、むやみに差し上げるべきではでないと思います。でも、今回は、場合が場合ですから。盗難が原因の警察レポート作成で、しかも22人分ですよ。それもこの時間まで。このケースでは、「差し上げたい」というお客様をお止めすることはしません。ここまでくると、お客様の気持ちの問題だし、下手に止めたらガイドの収入機会を奪うことになりますから。」

「なるほどね。」

「差し上げるべきということではないですよ。」

僕は、慌てて付け加えた。

「ふだんの観光で、お客様に差し上げないように案内しているのは、相場の高騰を防ぐためでもあるのです。今回は、それには当たりません。」

「分かった、分かった。それで、受け取ってもらうにはどうすればいいかな?」

「え?」

「あの4人みたいに、封筒なんかで渡されたら受取りにくいでしょう。なんかうまいやり方ない?」

「私は、お金をこうやって折りたたみます。こちらの人は、最後お別れの時に握手しますから、その時に右手にしのばせておいて、渡すようにしています。」

僕は、自分の10ユーロ札を使って実演して見せた。

「あなた、現地の案内人とお別れする時、いつも右手にはお金持ってるの?いつもそうやって渡してるのか。いつ渡してるんだろうって思ってたけど、そうやってるのかあ・・・。」

添乗員である僕にとっては常識だが、そのお客様には、ちょっとした発見だったようだ。

「かっこいいねえ、ツートンさん。」

と、褒めたのか、からかったのか分からない言葉を僕にかけて、その方を含めた数人が、ガイドさんのところに、お札入りの握手を求めにいった。

 

そんなこんなで、いよいよ警察の外に出ようとした時、先に帰られた親子のうち、息子さんが戻ってきた。奥さんと死別して、子供は親の元を離れ、老いた母親をたまに旅行に連れていくという、孝行息子だ。今回のエピソードの④で、「私はそこまで(補償)を求めません」と、バスの中で発言された方だ。

「すみません、ツートンさん、どうしても母が心配だったので、先に連れて帰りました。」

「当然です。お気遣いなく。無事に書類も出来上がりましたし、ご心配なさらないでください。」

「ありがとうございます。それで、これらをガイドさんに差し上げたくて。」

白いレジ袋の中には、カップ麺が5つと、サトウのごはんが3つ入っていた。

「え――!!!!いいんですか?こんな貴重なものを!?」

これまで、チップに関しては、いちいち遠慮しながら受け取っていたガイドさんだが、この袋だけは、興奮しながら積極的に受け取り、最初からがっちり握りしめた。「貴重な」ものというのは、彼女にとって大袈裟な表現ではない。パリやマルセイユなどの都会はともかく、アルルやアビニョンなどでは、日本のカップ麺などは、なかなか手に入らない。あったとしても、かなり高価だ。カップヌードルなら日本で200円弱のものが、500円以上することもある。とても買う気にはなれない。しかし、どんなに外国暮らしに慣れても、母国の味は忘れないものだ。ドイツのあるガイドさんが、お客様からカップ麺をいただいて喜んでいたのを思い出す。「5ユーロのチップより、このカップ麺1つのほうが、遥かに嬉しい」と。

最初にチップを差し上げたマダムなお客様がこっそり僕に言った。

「荷物も多くなったし、タクシーでお帰りになるように言って。それくらいのチップは渡したつもりよ。」

 

こうして、ある方はチップで、ある方は日本食で、ある方は丁寧なお礼を彼女に申し上げて、きちんと感謝の気持ちを伝えたのだった。

お客様をホテルに入れた後、僕は、ガイドさんを駅前のタクシー乗り場に見送りに行った。一仕事終えてほっとしたのか、お互い無言で歩いていたが、気づくと彼女が眉間にしわを寄せて悲しそうな顔をしていた。

「あー・・・どうしよう。私、あんなにお客さんのことを悪く言っていたのに、こんなによくしてもらっちゃった・・・。」

彼女は、悪口を言うのにに向かない人なのかもしれない。対象が自分が思ったよりもいい人であったなら、「ああ、実はいい人だったんだ」で済むと思うのだが、彼女の場合は、そうもいかないようだ。「なにもそこまで」というくらいの反省をしていた。

「嫌なことがあってから、最近は、なにかあると、すぐそこに結び付けていようとしていました。私って最低。ほんと、初心に帰りましたよ。こんなにチップもらったのも初めて。」

「よかったじゃん。お金の問題じゃなくてさ、みなさん待っててくれて。心が洗われたでしょ?()

「うん。本当に。最終的には、嬉しくなしました。最初は、あんなことばかり思ってた自分が恥ずかしいだけだったけど。」

「そういえば、みなさん、タクシーで帰って欲しいって言ってたよ。」

「はい。そうします。・・・あ、もうすぐそこだから、安心してお帰りください。ツートンさんも、明日の朝早いんだし。」

本来なら、彼女がタクシーに乗り込んでから挨拶をするところだが、確かに疲れていた。翌日がオフである彼女と違って、僕には帰国まで、いつになく緊張感に包まれた残りの日程が待っている。タクシー乗り場が近づいたところで、僕は失礼させていただいた。

 

ホテルに帰ってから、彼女から電話がかかってきたのは、それから一時間後。僕が、東京の担当者にレポートを送信してすぐだった。

「着きましたか?」

「いえ、まだです。なんだか、お礼を言い足りない気がして。こんなによくしていただいたのは、ツートンさんのおかげです。ありがとうございます。最後にそれだけ言いたくて。」
「いえいえ。とんでもない。こちらこそ、本当に遅くまでありがとうございます。」

彼女の周辺に聞こえる音が、どうも変だ。どう聞いてもタクシーに乗りながらのそれではない。

「タクシー乗らなかったんですか?」

「はい。結局列車に乗りました。なんか、もったいなくなっちゃって。明日は、完全に休みだから。家族でこのお金を使って外食でもしようかと。」

「え・・・?」

「実は、今日の仕事も午前中だけの予定だったから、ランチは、家族みんなでゆっくりとる予定だったんです。それが、この緊急事態でなくなってしまって・・・。子供は、9歳と6歳なのに、『ママ大丈夫だよ!』って電話で励ましてくれたから、そのご褒美で。」

「ご主人は?」

「タクシーで帰っておいでよ、って言ってくれたのですが、さっきのことを話したら、『それはいい考えだね。じゃあ、マルセイユなんて経由しないで、手前の駅で降りて。そこまで迎えにいくから』と、言ってくれました。」

「優しいなあ。」

「そうでしょう?優しいんですよ。だからフランスに嫁入りしてしまいました。」

「いえ、ガイドさんが優しいなって。」

「私ですか!?」

「うん。僕なら、そこまで思い付かない。疲れ切って、すぐにタクシーに乗って帰る。」

「疲れてるんですけどね。今日の仕事は、家族の理解があったからこそできたんですよ。さっきのご褒美は、家族みんなのものですから。」

なんて素敵な考え方なのだろう。なんて家族思いなんだろう。彼女と同年代の日本人男性は、いったいなにをしていたのだろうか。こんな素晴らしい女性を、フランスにまで逃してしまうなんて。

 

この日の窮地は、彼女のおかげで乗り切れたのだと、あらためて実感した夜だった。