元彼は、仕事の都合で家を出ていて不在だったが、彼の母親は、ただならぬM田さんの様子を見て、話を聞いてくれた。

「具体的な援助なんて、全く当てにしていませんでした。せめて助言・・・いや、まずは気持ちを分かってくれそうな人に話を聞いて欲しかったんです。」

「堕ろせ」とは一切言われなかった。

「あの方は、カトリックだから。じっくり話を聞いてくれた後は、『産む』ということを前提にアドバイスをしてくれました。」

 

移民に優しいペルーでは、就労ビザさえ取得しておけば、妊婦はある程度の待遇を受けることができる。

「あなたは、旅行会社で働いているのだから、就労ビザは持っているのでしょう?すぐに手続きしなさい。」

元カレの母は、何も知らないM田さんに、知り得る限り行政サービスのすべてを教えて、実際の手続きまで手伝ってくれた。

「あの人がいなかったら、出産できなかったんじゃないかなあ。本当に感謝しています。」

つわりがひどい時は、M田さんのアパートにいりびたりになって面倒を見てくれた。食事も、食べやすいものを、よくつくってくれた。

「『私のかわいい孫娘がここにいるのね』ってよくお腹をさすってくれましたよ。」

 

臨月が近づいていた。勘当同然で連絡を取っていなかったとはいえ、その時の自分の状態は、日本の家族に伝えたかった。

「妊娠を知らせて数か月経ってました。きっと心配にしているに違いないと思って。」

元カレのお母さんの助けのおかげで、多少、心に余裕ができたM田さんは、日本の両親に電話をかけた。

「本当に産むのか!?」

ご両親は、彼女が帰国するものと思っていたらしい。二十歳そこそこのM田さんが、異国でなす術なく傷心で帰国しようとしたら、受け入れようと連絡を待っていたということだった。

「まさか出産までこぎつけるとは、しかも、元カレのお母さんが、自分の娘を助けてくれているとは想像していなかったみたいです。そりゃそうですよね。」

そして、ついに日本から実の母親がやってきた。

「嬉しかったですよー。『やっぱり私のお母さんだあ』って思いました。」

当時のことを思い出したのか、少し目が潤んでいる。

「それで、私の狭いアパートに、日中は母親と元カレのお母さんの三人でいたんです。お互いに言葉が通じないから、会話は全部私の通訳です。」

「それは、けっこうな重労働だったんじゃないですか?」

「まあね。でも、楽しかったですよ。国をまたいでも女同士の会話って同じだと思いました。それに、母親は、私の心理的な助けになっても、買い物一つに不自由してしまうほど、海外には慣れていませんでしたし、その他のことでも、元カレのお母さんの助けが必要でした。2人とも、自分でできることを私のためにしてくれて・・・。どうしようか悩んでいた時期が信じられないくらい幸せに感じてました。」

「ある時ね、だるくて、ベッドで横になっていたんです。そうしたら、母たちが、自分たちだけで会話してるんです。もちろん、日本語とスペイン語で。これがけっこう噛み合ってて笑っちゃって()

『なんでわかるのー?』って聞いたら、二人とも笑いながら『分かるわよ。当たり前よ』って大笑い。三人でしばらく笑っていたら、私、涙が出てきちゃって。」

 

「その時、心から安心している自分に気付いて・・・『ああ、私、ちょっと前までめちゃくちゃ不安だったんだあ』って・・・。元カレのお母さんが、あんなによくしてくれると思わなかったし、母親がペルーまで来てくれるとも思わなかったし、2人があんなに仲良くなるとも思わなかったし。」

精神的に安心できる材料がすべて揃った。

「産んでいいんだ。(お腹をさすりながら)この子は、生まれた時に祝福されるんだって、初めて確信できたんです。そしたら涙が止まらなくなっちゃって。」

そして彼女は、女の子を出産した。名前は美亜。元カレの母親は、今も美亜を大切にしてくれている。

「漢字で書いたら美亜。アルファベットならMia。日本でもこっちも通用するような名前をつけました。」

 

「『自分のお腹にいる赤ちゃんを殺せるものか!』っていうのが産めた一番の理由ですね。でも、今、考えてみると、二十歳そこそこで若かったというのもあります。社会の厳しさとか、子育ての大変さなど全く考えなかったし、思いつきもしませんでした。」

 

「今だったら、きっといろいろ考えてしまうと思うんです。30歳くらいになると、どうしても、世の中の怖さが見えてくるじゃありませんか。それを大人になったとか言うのかもしれないけど。

今の年齢で、同じようなことがおこったら、産まないという選択もありえたかもしれませんね・・・。若さの勢いっていうけど、私にとっては、あの時がまさにそれ。でも、だからあの時に妊娠してよかったと思います。」

「どうして?」

「美亜は、私にとっては世界一の宝物だもの。産んで、ここまで育てて本当によかったと思ってるの。ずーっと、そう思え続けることができるのは、あのタイミングで産んだのもあると思うんです。それに、美亜がお腹から出てきてからは、考えるべきことはあっても、迷う時間はなかったわ。」

彼女の口調は、だんだんエネルギッシュになっていた。

「『一人でちゃんと育てられるの?』と言われたら、育てるしかない!『学校に通わせられるの?』と言われたら、当然通わせるしかない!『仕事は?』『子供の世話は?』全部なんとかするしかなかったんです。」

 

母親になった彼女にとって、そして全ての母親にとってそうであるように、出産は、始まりだった。