コロナ禍よりも遥か昔の話。

 

「贅沢なツアーだなあ・・・。」

駒形は、心の中で呟きながら、ツタンカーメンの黄金のマスクの前で立ちすくんでいた。

エジプトの首都カイロにある国立考古学博物館の第三号室。この部屋には、ツタンカーメンの黄金のマスクだけでなく、他では見られない、様々な王家の墓の副葬品が展示されている。常に多くの人で溢れかえっている館内でも、特に混雑がひどい。

この三号室内部だけは、ガイドによる案内が禁じられている。だから、パッケージツアーでは、部屋の外側で展示物の説明をしてから、ツアー客に15分ほど時間を差し上げて、それぞれに見学してもらうようになっている。

エジプトには、仕事で何度も来ている駒形だが、これまで、まともに三号室に足を踏み入れたことはなかった。一度だけ、少しだけ空間ができた十数秒間に足を踏み入れて、ツタンカーメンだけを一瞬間近で見たことはあったが、それだけだ。仕事で来ている自分が、混雑の中で、一般旅行者の楽しみを邪魔してはいけないという思いがあった。

しかし、今、この時だけは自分も、参加客と一緒に「禁断の部屋」に足を踏み入れていた。そして、正面に、自分のすぐ目の前にツタンカーメンを見つめていた。

 

午後六時。閉館の時間帯。駒形が仕事をしていたファーストクラス・トラベルのツアーは、閉館後の博物館を1時間半貸切ったのだ。それ自体は、それほど珍しくはない。他にも、同じ手配をしている旅行会社はある。だが、他社がエジプトに、一気に大量の送客をして、300人から500人単位で、それを行うのに対して、ファーストクラス・トラベルは、たった31人のお客様のために、大きな博物館を丸ごと貸切っていた。

 

ガラガラの巨大な博物館を、たった31人の客で案内するという究極の贅沢に、駒形は、参加客の誰よりも酔い痴れていた。

「贅沢だなあ・・・。」

こう思いながら立ちすくむのも無理はなかったが、駒形の思いのわりに、参加客の反応はそれほどでもない。与えられた時間をいっぱいに使うと、次々と部屋から出ていった。

考えてみれば、駒形がそこまで感動できるのは、これまでの通常手配の通常観光と比較しているからだ。これが、初めてのエジプト訪問である参加者からすれば、比較するものがないから「貸し切りが普通の状態」ということなのだろうか。或いは、パンフレットに「特別貸し切り観光」と明記されているから、単に契約通りで当たり前ということなのか。

「忘れてた。これはファーストクラス・トラベルのツアーだった。」

この旅行会社の顧客は、有名企業の社長や役員、或いは、ある地域の名医だったり、ある地方の名士だったり、所謂セレブの集まりだった。こういう「特別扱い」は、日本では、当たり前で慣れているのかもしれない。

「なんにしても、この経験はなにものにも代え難いな。」

満足して、次々と三号室を出ていくツアー客を見ながら、駒形は再びツタンカーメンの正面に立った。

「・・・正面にいるのに、目線は合わないもんだな。どこに立ったら合うんだろう。・・・しかし、きれいに手入れされてるなあ。細かい装飾もすごい。」

学生時代、親戚のジュエリーショップでアルバイトをしたことがあった駒形は、貴金属の拭き方だけは教わったことがあり、その手入れの良し悪しだけは見極めることができた。

「ツタンカーメンて、若くして亡くなって、大した記録も残ってないんだよな。そもそも墓の規模が小さく、位置的にも見つかりにくくて、盗掘を逃れたんだっけ。そんな力がない王様でも、こんな立派な黄金のマスクと副葬品か。すごいな。だとしたら、ラムセス二世の墓の中なんて、どんなだったんだろう。」

黄金のマスクを前にして、様々な思いと想像が頭の中を駆け巡り、胸が高まってきた。

「写真を一枚撮っておこうかな・・・」

そう思って、ポケットのスマートフォンに手を伸ばした時だった。バシッと左肩を強く何かが叩いた。振り向くと、思川が怖い顔をして立っていた。

「なにやってんのよ。あなたのお客さんは、もう全員、部屋の外でお待ちになってるわよ!」

「あ・・・」

31人の参加者は、15人と16人に分けて案内されており、。駒形のグループが、三号室の観光を割り当てられた時間は過ぎていた。ガイドのイスカンダルと15人のツアー客は、部屋の外で彼を待っていた。

「添乗員が、お客様よりも楽しんでどうするのよ!」

思川は、わざと大きな声で駒形を叱った。この程度で、参加者からクレームが出るとは思わなかったが、お客様の手前、ビシッと言っておかなければいけないと思った。たった31人のツアー客と案内人4人、そして警備員しかいない館内に、彼女の声は劇場のホール内のように響き渡った。焦った駒形は顔を紅潮させて、それが滑稽に見えたのか思川の背後にいた参加客からは「クスッ」という笑いが漏れた。

「すみません・・・つい。」

「ポケットのスマホから手を離して。」

今度は、小声で駒形に指示を出した。

「え?」

「ここだけは撮影禁止よ。忘れたの?」

「・・・・・あ!」

この博物館の中で、この第三号室だけは、撮影厳禁なのだ。ツタンカーメンの黄金のマスクに見惚れるあまり、すっかり忘れてしまっていた。

「もう・・・。」

軽くため息をついた思川は、お客様のほうを振り返り、

「みなさん、どうぞお入りください。」

と、どすの利いた声を、一気に天使の声色に変えて案内を始めた。

「駒形のことは申し訳ありません。でも、許してあげてください。彼は、ここ二年、うちの添乗員では、一番多くエジプトを案内しているんです。だから、この貸し切りという状態の価値を、誰よりも感じていると思います。私も、ツタンカーメンを立ち止まって見たことなどないです。今日は、みなさんと一緒に、それを実行しようと思います。」

「ほーっ!」参加客たちから歓声があがった。その雰囲気に乗って

「でも、私は彼と違って、自分は仕事とわきまえておりますからご安心ください。」

と言い、その場にいた人たちの笑いを誘ったのだった。

 

「なるほど。そういうことなのか。彼女の言うことを聞いたら、駒形さんを笑って許せるよ。」

お客さんの一人が駒形に話しかけた。

「いつまでも、自分の旅行みたいに楽しんでいるんじゃない!と思ったのだけどね。あなたは、今までの自分の仕事と、今回を比べることもあるんだね。そう考えると、あなたの様子を見て・・・うーん、いい旅行をさせてもらっているんだなあと、実感できるね。」

 

思川の機転により、ツアー客が、貸し切り観光の価値を理解したことで、ツアー開始早々ファーストクラス・トラベルの株が上がったのだった。

 

貸し切り時間を終えて、博物館の外に出てきた。

「思川さん、ごめん。さっき、お客さんに言ってた通り、感動で我を忘れたよ。」

駒形は、バツが悪そうに謝った。

「大丈夫だよ。気にしないで。そんなこともあるって。そういう感性があるから、この面倒くさい仕事を、長年続けていられるんだよ。私、好きだよそういうの。」

姉御肌の思川の顔を、カイロの夜の明かりが、きれいに照らしていた。

 

ファーストクラスの旅は、順調に始まった。