ナイルの悪夢① まえがきと人物紹介 : マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ (livedoor.blog)

これまでの登場人物は、上の①をご覧ください

 

この日の朝7時15分。思川は、レストランが開く少し前に朝食へ向かった。

ビュッフェの朝食は、特に集合時間を設けず各自でとってもらうことになっているが、彼女は必ずレストランが開く前に赴き、早くから来ている客に挨拶するようにしていた。特に意味もこだわりもない。最初に勤務した五大陸旅行社で、そう教育されて習慣になっていただけだった。

駒形は、朝一番でレストランに行くことはなかった。そのせいか、「朝食の係は思川さん」だと勝手に思っていた客もいた。

開店時間前のレストラン傍で、彼女は、一人の男性客から声をかけられた。

「実は、朝起きたら妻が、お腹をくだしちゃってね。熱はないんだけど、朝食は控えるって。観光はどうしようか迷っているんだ。」

「あら、それはいけませんね。ちょっと様子を見せてください。」

真面目で誠実な思川は、ご主人と一緒に客の部屋へ向かった。夫人の様子はひどくはないが、観光を楽しめる状態ではないように思えたので、とりあえず、午前中は部屋で休んでもらうようにした。その後、レストランに戻る途中、たまたま手前で会った二人の客に下痢や吐き気の症状があることを相談された。

「こんなに一度に似たような症状が、たくさんの人に起こるものなの?」

不審に思った思川は、最後に訪問した女性客の部屋から、駒形の部屋に電話をかけたが出ない。仕方なく、今度は携帯で連絡を取ろうとしたが、

「あ、部屋に置いて来ちゃったんだ。」

朝食を終えて、すぐに戻ろうと思っていた彼女は、昨晩、忘れていた携帯の充電を、この時にしていた。一度、階下にエレベーターで下りて、レストランに行ったが、そこでも駒形には会えなかった。

「まあ、いいか。医者がいつ来れるかだけでも、先にレセプションに問い合わせておこう。」

そう思って、上階のレセプションに向かうと、そこに駒形がいた。

 

「あ!」

「あ!おはよう。」

「お客さんが体調を崩して大変なことに・・・」

「具合が悪くて観光に行けないお客さんがいて・・・」

お互いに、自分の言いたいことを優先して会話が始まらない。

「駒形さん、お先にどうぞ。」

お姉さん格の思川が先に譲った。彼女は、自分が把握している客の現状だけでも、事を深刻に受け止めていたが、駒形の話を聞くと、強い動揺を露わにした。彼から聞いたお客さんの様子のほうがより深刻だったからだ。

「え?高崎様はそんなにひどいの?」

「嘔吐が床に広がっている様子をもろに見たから、その印象が強烈なのかもしれない。夜中に5回吐いたというくらいだから、体力的には弱っているかな・・・。」

「医者はすぐに手配できるかしら?」

駒形は、時計を見た。この日の観光出発予定は845分。時刻は、8時20分になっていた。二人は医師がいつ来れるか確認するようにレセプションデスクに頼み、一度部屋に帰って、荷物だけを取って、すぐ集合場所にやってきた。

客が集合する前に、イスカンダルとハーディーもやってきた。二人とも思川からの報告に驚いて、いつも陽気な彼らの顔が真剣な顔つきになった。

「少なくとも、今、診察を希望されてる方が2名様。今後、増える可能性があります。いえ、間違いなく増えるでしょう。医師の診察には、誰か帯同すべきだけど、ハーディーたちは観光案内があるから、私か駒形君が残ることになる・・・・・・。だとすると、ツアー担当の私かな、残るのは。」

少し自信がなさそうに言った思川に、駒形がきっぱりと提案した。

「いや、診察には僕が帯同する。」

「どうして?」

否定された思川が、少し不機嫌な顔で理由を求めた。

「診察に立ち会ったら、大半の方は英語でコミュニケーションを取れないから、僕らが、ある程度の通訳をしないといけない。そうなったら、診察だけに集中しないといけなくなる。」

「うん。それで?」

「患者対応と同時に、日本に連絡を入れたほうがいい。」

駒形は、自分の考えを余すことなく説明した。

この日はルクソールに停泊しているクルーズ船にもう一泊する。次の日からは空路でカイロへ移動して近郊のギザで二泊だ。それからロンドンに一泊してから帰国する。帰国が視野に入った状態で、このトラブルだ。移動が絡む時に、体調不良が原因で、ご一緒できない参加客が出てくるかもしれない。

その場合の入院先、滞在ホテル、別移動する客の航空券手配、その際に日本語を話せる現地の案内人をつけられるかどうか、ある程度の行動パターンを考えながら、航空機の空席状況を確かめておく必要がある。動き方を決めた時に、空きがなかったら二度手間になり、効率が悪い。

このような大きなトラブルになると、現場の添乗員の判断と裁量だけではどうにもならない。詳細は後にしても、現地で起こっていることを前もって日本サイドに伝えて、できる準備からしてもらう必要があった。添乗員は、それから参加客のケアを徹底して行い、それをまた、いちいち日本に報告して、道筋を整えていく。

こんな時、物事がスムーズに運ぶ時は、客からは見えないだけで、必ず日本にいるスタッフの活躍がある。

 

この辺りの判断力は、この時点では、思川より駒形のほうが上だった。

思川は、五大陸旅行社で、三年の勤務経験があったが、その時は添乗と顧客へのセールスしか経験していなかった。派遣添乗員を経てファースト・クラストラベルに入ったが、企画担当者としては、まだ一年半のキャリアしかない。

駒形は、添乗経験こそ、やや思川に劣るものの、リッチ&コンフォートツアーで10年間勤務経験があり、そのキャリアの中で、入社4年目以降は、主に企画担当として働いた。自分が担当しているコースが、現地でトラブルに遭い、何度か対応に追われたこともある。担当者としての経験不足が原因で判断ミスをしたこともあれば、時には、

「あの時、もう少し早く添乗員が連絡してくれていればどうにかなったのに・・・」

と、添乗員に対して恨みに近い感情を抱いたこともあった。

彼は、この手のトラブルにおいて、日本にいるスタッフとの連携を、早く始めるほど有利になると分かっていたし、その重要性が骨身にしみていた。

「観光案内はガイドの仕事だ。添乗員は、最後尾からついていくだけだよ。バスの中では人数確認だけだ。その間に、日本に電話連絡できる時間はたくさんある。だから思川さんが観光についていくべきだ。指示を受ける側の僕は、船でお客さんのケアに集中する。」

三人が頷いた。

また、同じ観光地で重ならないように、二つのグループは別々の動きをする予定だったが、

「同じ動きにしたほうがいい。今は大丈夫でも、また体調を崩す方が出てくるかもしれない。その時、二台バスがあれば、体調の悪いお客様だけを乗せて帰って来れる。」

次々と効果的な意見を出した。

一度にこれほどの参加客が体調を崩すのは、かなり大きなトラブルだ。しかし、それでも駒形が、「帰国」までの道筋を、一瞬で考えた中で、ひとつだけ前向きになれる材料があった。

「大丈夫だ。今回は四人いる。」

この現場に添乗員ひとりで対応するとしたら困難を極める。だが、今は、作業を分割できるスタッフが四人いる。まずはこのマンパワーを、有効に使うことだ。数々の修羅場をくぐってきた駒形は落ち着いていた。

もう一人の添乗員が思川というのも幸運だった。この現場の責任者は彼女だ。もし、彼女が、こんな時に正社員と派遣社員との立場の違いにこだわるような人間だったら、素直に駒形の言うことを聞き入れなかったかもしれない。実際、駒形の言い方は、少々雇われ添乗員の立場を超えている部分があった。

しかし、思川は気にしない。真面目で、凛とした雰囲気の彼女は、その言動から、プライドが高いと思われがちだが、実はそれほどでもない。彼女が一番強く持ち合わせているのは、「正義感」だ。特に現場では、顧客のために、何が正しいかを一番に考える思川は、駒形の正しさをすぐに受け入れた。

「そうね。それで行きましょう。午前中の様子で、また午後のことは考えます。ハーディー、いつも私がやっていることまで、現場でやらせてしまうかもしれないけど、その時はお願いします。イスカンダル、2グループが一緒に動くと言っても、大きなグループに見えないよう、ある程度の距離はとるように気を付けて。大人数になると、お客さんのストレスが溜まります。お互いの姿が見えればいいから。なにかあったら、大声を出すよりも携帯を鳴らしてください。そして駒形君、体調の悪い方のケアをよろしくお願いします。」

動きは決まった。この時点では最良の配置だった。

 

観光出発五分前。客たちが集まってきた頃、思川が駒形に指示を出した。

「出発前は点呼を取って。今日は人数確認だけじゃだめ。私たちに欠席を知らせることができた人はいいけど、部屋で動けない人がいるかもしれない。」

思川の心配は、的中した。

「僕のグループは、一人確認できない。」

「誰?」

「韮山様・・・」

「あ、昨日、一番最初にお腹の調子を崩した人!」

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ナイル川クルーズ中に見られる夕日