お客様の耳のことは、お友達も気づいていなかったようだ。
「あなた、何を聞いてたの?ちょっと変な時あるわよ。ツートンさんが、一生懸命話しているのにトンチンカンなこと言ったり怒鳴ったり。」
「マスクを外してお話したら聞こえますか?」
と、僕が尋ねると、ようやくお友達も気づいた。
「そういうこと?・・・あれ?でも、私と部屋で話している時は、マスクしてても普通にお話できるのに。」
「え?」
僕は、お客様を見つめた。二人は、ふだん同居でしているわけではないので、お部屋でもマスクを外さずに会話をしているとのことだった。
「部屋の中では、まわりの音がないから聞こえるのよ。それと、女の人の声のほうが聞きやすいの。あなたの話は、バスに乗ってる時も聞き取れる。」
「ああ・・・そういえば、今までの添乗員さんは、みんな女性だったわね。」
「周りの雑音ばかりが耳に入って、肝心なものを聞き取れない」、「男性の太い声は割れて聞きにくい。女性の声のほうが聞き取りやすい」という声は、ご年配のお客様から時々聞こえてくる。そういうたいていの方は、「いろいろ聞き返してしまうかもしれないけど、よろしくね。」とお断りを入れてくる。
「私も、なにか食べるものを取ってくるわ。」
その場から離れたかったのか、お客様は席を立ってフードカウンターに向かった。
「長い付き合いだから、耳が良くないのは知っていたけど・・・でも、会話に困ったことはなかったのよ。男性の声だって、前は問題なく聞き取っていたと思うわ。」
「お友達様は、僕の話を聞けているでしょう?レストランはどうしてお間違えになったのですか?」
「あれね・・・ツートンさんが、ホテルに入ってレストランの方向を教えてくださったでしょ?その時、私トイレを我慢できなくて、彼女に案内を聞くのをまかせてしまったの。たぶん、あなたの話が聞き取れなくて、身振り手振りだけ見て、適当に判断しちゃったんだわ。」
「なるほど。・・・でも、ホテルに入る前にお渡しした案内には、レストランの名前を記載しておきましたよ?」
「そうなのよ。私も、それを見ていたの。レストランの名前も覚えておいたのよ。ロビーで、分かれ道があったでしょ?そこで『夕食のレストランの名前はこっちに書いてあるわよ』って言ったのよ。でも、彼女が『見間違いじゃない?ツートンさんは、こっちだって言ってたわよ。』って。そう言われたら、私もそうかなあって。」
「案内を見直せばよかったのに。」
「お部屋に置いてきちゃったのよ。」
「レストランの人は、入る時に『ここでいいか』確認したって言ってましたが。」
「そこは彼女が話して、『ここでいいはずだ』ってことになっちゃって。予約は入っていないけど、席は空いてるから入れてもらえちゃったのね。」
「予約されていたレストランの名前はおっしゃらなかったのですか?」
「恥ずかしいことに・・・ここに歩いてくるまでに忘れちゃったの・・・。」
「あの方は・・・あれだけ『カニ、蟹!』って騒がれていたのに、その時はカニについては何も仰らなかったんですか?」
「仰らなかったのよ。その時に限って。・・・私は、カニにだわりないし、別にここでも良いのだけど。飲み放題ならなおさらね。」
僕は、深く呼吸しながら苦笑いした。「間違いが起こる時には、止めようもなくこうして起こる」という典型的な例だった。迎える側が、どんなに注意確認しても、悪い意味ですり抜けていってしまうことはある。
お客様が戻ってきた。
「マスクを外してもらっただけで、こんなに聞き取りやすいものなのね。口の動きが見えるだけで、全然違う。」
いつか、海外ツアーの仕事で、聴覚障害のお客様が読唇術を心得ていたことを思い出した。障害の有無に関わらず、案外、ふだんの僕らも会話時には、無意識に口の動きを見ているのかもしれない。
「でもお客様、聞き取れない時は、ちゃんとご確認くださいね。」
お客様の状態に、なぜここまで気付かなかったのか、よく考えて申し上げた。普通、聞こえない方は、納得いくまで何度も聞き返してくる。ところが、この方は、これまでただの一度も聞き返しがなかったため、この方なりに理解していたと、僕は思い込んでいた。聞こえないように見えなかったのだ。
自分勝手な思い込みと捉えていたものも、「聞こえてきたものをつなげて、一生懸命理解しようとした」と思ったら、少しは怒りがおさまってきた。お友達は、
「そうよ。聞こえてないのに、あんなにツートンさんを怒鳴ったり叱責したりするのはよくないわ。あなた、みんなから嫌われてるわよ。『話を聞かない、我儘おばさん』だって。今のままだとブラックリストになっちゃうわよ。」
ブラックリストは大袈裟だが、要注意人物としてレポートをあげようとは思っていた。何も知らなければ、それまでの彼女の物言いは、クレーマー以外なにものでもなかった。
この手のお客様は、なかなか謝らないものだ。
「いつもいただいてる案内を、もう少し細かく書いてくれたらありがたいわ。」
照れくさそうに下を向きながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「案内はちゃんと読まなきゃだめよ。いつも私しか読んでないんだから。それと、添乗員さんを叱りつけるのは絶対だめ。わかった?」
「分かった。もうしない。案内は、これからはちゃんと読む。・・・ねえ、ツートンさん、カニはもうダメ?」
「当たり前でしょ。」
僕よりもお友達が早くこたえた。カニにこだわりはないと言っていたのに、「あなたのせいで、カニを食べ損ねた」と、嫌味な冗談まで言っていた。
次の日の出発前、前日の誓いを破って、お客様は激しい口調で、僕に話しかけてきた。癖はなかなかなおらない。だが、この時は、傍から見たら横柄にしか見えないこの方に、一組のご夫婦の奥様が怒った。
「ツートンさんは、そんな案内はしていません!」
「あなたは、話を聞いていないだけ!」
攻撃的な物言いをする女性も、ツアー仲間から責められると、さすがにこたえるらしく、黙り込んだ。厳しい言葉をほんの一瞬浴びせられた後、僕はすぐに間に入り、奥様に前日のことを話して、これ以上責めないように頼んだ。
「そういうことなの?」
奥様は、グループの中でも僕のことを贔屓にしてくださっていたので、落ち着いて話を聞いてくださった。
「聞こえないそぶりを見せないから分からなかったわ。」
話し方には、多少の同情が見えたが、彼女を見つめる目は厳しかった。
「ツートンさんがそう言うなら、それでけっこうです。でも、それなら彼女の、あの物言いをなんとかしてください。ご存知でしょう?本当にみんな不愉快な思いをしてるのよ。」
確かにその通りだった。僕は、お客様に近づいて、前日のうちに書いて用意していた、この日の流れや注意事項をお渡しした。
「バスの中でお話する案内の内容です。これさえ手元にあれば、今日は不自由しません。どこの案内か分からなかったら、その場その場で聞いてください。それと、さっきみたいな怒鳴り口調はもうだめですよ。皆さん、びっくりしますから。」
彼女は、頷きもせず、無言でそれを受け取った。「よく聞こえないこと」を他の方に教えるのは、ある意味個人情報保護の点で問題と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、この場合は、個人情報よりも、その方のツアーにおける立場を守るほうが優先だった。
その日は、ツアー最終日だったが、珍しく怒号が飛ばずに一日を終えて、千歳から帰りの便に乗るに至った。問題児だったお客様は、最後まで一言も僕に謝りはしなかったが、お友達も含めて、周りに誰もいない時に一言だけ言った。
「最後の日のメモはありがとう。助かりました。」
そして、前日に食べられなかったカニを空港でお求めになったのだった。
正直、最後までムカつくお客様ではあったが、最後のお礼は、その後の仕事でのヒントとなった。
マスク着用で口頭案内するようになってから、確かにお客様からの聞き返しの多さが気にはなっていた。よくよく考えてみると、マスク着用中は、口の動きが見えないだけではない。口を大きく開けるとマスクがずれるから、大声を出せず、口も開けずに話しているのだろう。マイクを使ったバスの案内も含めて、話し手の想像以上に、聞き手にとっては聞き取りにくいのかもしれない。
僕は、字が極端に下手でコンプレックスがあるので、海外添乗中の書面案内は、パソコンで打つようにしていた。しかし、国内の添乗は準備に忙しく時間がないため、最低限の案内だけをメモにして、大半のことは口頭で案内していた。
その結果、聞き返しが多いという状態をつくってしまっていたが、「字が下手でも、聞こえなければ読んでくれるだろう。聞き返しは、聞いてくるほうにとっては意外にストレスかもしれない。」と考えを改めて、情報を、ことごとく文字にするようにした。
実は、僕の国内添乗におけるお客様の評価は、海外時に比べて著しく低かった。だが、この作業をやり始めてから、現時点まで2本ツアーをこなしたが、それまでとは違う高評価になっている。3回目以降は、コロナ禍が悪化してしまったため、まだ試せていない。
コロナ禍における、より分かりやすい案内は、口頭よりも書面であることを見つけた出来事だった。
これは、海外が再開してからもそうなっている可能性が高いから、より分かりやすい書面案内を研究しておこう。