マスター・ツートンの仁義ある添乗員ブログ

自称天使の添乗員マスター・ツートンの体験記。旅先の様々な経験、人間模様などを書いていきます。

カテゴリ: ペルーと南米

最後の日本食レストランは、純和風の料亭のようなところで、自分がペルーにいるということを、忘れてしまいそうな雰囲気のところだった。

M田さんは、親方のお気に入りのようで、「よお!」と挨拶されるなど、なかなか親しそうだ。

お客さんたちは、奥の座敷宴会場に案内されて、僕らの席はカウンターに用意されていた。みなさんが座って落ち着くと、親方からお願いされた。

「添乗員さん、ちょっとお客さんに言って欲しいことがあるんだけど、頼むよ。」

聞けば、ここ1年ほどで、トイレが詰まるトラブルが2回起こったそうだ。原因は、パンツだという。

「マナーの悪い日本人がさ、パンツを流したんだよ。帰国の飛行機に乗る前に、この店に来てくれるツアーがけっこうあるからね。その時に着替えて脱いだものだろう。最近の日本人観光客は、大騒ぎしたりマナーが悪いのが多くて困ってるんだが、あれは最悪だった。」

俄かには、信じ難い話だった。

「あの、そうだとして、どうして日本人だと分かるんですか?」

「バキュームで取り出すだろ?ビニール手袋をして、洗濯物表示を確かめたら日本語だったんだよ。」

「・・・・・・分かりました。今、言いに行きます。」

「よろしく!」

「あの・・・男性用のトイレの話ですよね?」

「あたりめーだよ!」

「女性がそんなことするわけないでしょ!」

親方とM田さんが、吹き出しながら突っ込んできた。それにしても、なかなか言いにくい案内を求められたものだ。僕は、「皆さんには関係ない話ではありますが」という枕詞をつけて、念のためのご案内をした。そして、宴会場から出ようとした時のことだ。男性客の1人が、僕のところにやってきた。

「ツートンさん、パンツって流しちゃだめなの?」

なんだか、旅の最後にして信じられないことばかり耳に入ってくる。

「だめに決まってるでしょ!・・・いつもやってるんですか?」

「たまにね。外国の水道管は、太そうだから大丈夫だと思って。今回みたいな行程だとさ、二晩着替えずに同じパンツをはいたままになるだろ?それでいつも着替えてるんですよ。」

「着替えるのは分かります。でも、こちらの水道管は、むしろ日本よりも細いと言われています。・・・いや、太くてもトイレにパンツを流すのはダメです。圧倒的にダメです。言語道断です。」

この方は、マチュピチュの大停電の時も、蝋燭の火を消さずに長い間外出されるなど、見えないところで非常識なことをなさるお客さんだった。ふだんは面白い人で、親しくさせていただいたのだが、こういう時は、強くものを申し上げた。言うと分かってくださる方ではあった。

「僕の荷物にビニール袋が入ってます。それを差し上げますから、脱いだパンツはそれに入れてください。持ち歩くのが嫌なら、空港で着替えて、空港のごみ箱に捨ててください。」

「分かりました。ツートンさんに迷惑かけないように、トイレには流しません。」

「お願いします。・・・というか当たり前です。」

「こういうのって、その・・・会社にも報告するんですか?」

「パンツをトイレに流す可能性があるということで、するかもしれません。」(実際はしなかった)

「いや、できればそれは・・・。あ、これは絶対にお願い。今の話、妻にはしないで。」

「・・・・・・奥さん、ご存知ないのですか?パンツをよく流すこと。」

「いちいち報告しないよ。最後に怒らせたくないから。お願い!」

「・・・どうしたもんですかねえ。」

奥様には、言わなかった。というか、「ご主人は、時々外国のトイレにパンツを流してます」だなんて、馬鹿馬鹿しくて言う気にもなれなかった。

 

「案内して来ましたよ。」

僕は、カウンター席に戻った。

「おう、ありがとう。まあ、あのお客さんたちは大丈夫そうだけどね。」

「ええ。それはそうですよ。今回は、そんな方いません。」

と、胸にチクチクするものを感じながら、僕はこたえた。

 

ようやく落ち着いて食事の時間だ。

「さっき、バスの中で話した、日系人が日本語を失った話ですけど、ああいう歴史なんかを意識してるから、子供を日本人学校に通わせてるっていうのはありますか?」

「もちろん!こちらで生活している以上、自然にペルー人としてのアイデンティティーはできてきます。娘が、将来こちらに住むことを選んだ時、日本人の血が流れているということも、しっかり覚えていてほしいし、日本を選んだとしたら、そういうことを受け止めらてる人間になってほしい。ふだんの振る舞いは、もうこっちの子ですけどね。日本人と関わりあうのは学校だけ。近所の子は、みんなペルー人。だから、あいさつのキスも当たり前。でも、うちの両親と会った時にはしないんです。親たちは、キスに慣れてません。ぶちゅぶちゅされるのを嫌がるんです()

美亜は、そうやって少しずつ、小さなところから、ペルー人の自分と、日本人の自分を見分けるようになっていくんだと思います。」

「そうですね。きっと。」

彼女の携帯電話が鳴った。日本の母親からだった。故郷の訛りで話していた。

「親からの電話は、極力出るようにしています。緊急だったら大変だし。滅多に会えない分、話したいことがあったら、聞いてあげるようにもしてますよ。国際電話代?飛行機代に比べたら安いもんです()

 

「親より子供と言ってもね、親を粗末にするとか、ないがしろにしいるわけではありません。日本の家族のことは大切だし、大好きです。」

その言葉を聞いて、なんだか少しほっとした。

「あ、それとね、ツートンさん。最後、どうしてもお伝えしたいことがあって。プーノのデモのことなんだけど。」

「なんですか?」

「お客さんたちと、それについて話してる時、『早く次に向けて努力すればいいのに』とか言ってたでしょう?あれ、だめです。」

最初は何を言われているか分からなかった。

「ここは日本じゃないんですよ。誰でも努力すれば、なにかしらの報いがあるところではないんです。しっかり努力を重ねて勉強して、しっかり知識を持った人間が、何も報われないことがあるのです。それが、時にあのような暴動に発展してしまいます。」

「ええ。」

「日本のように恵まれた・・・ある意味『ぬるま湯政治』の中で生活していると、なかなかそれを理解できません。私もそうでしたけど。」

プーノからの出発間際に、フェリペから言われたことを思い出していた。「努力して報われる社会であれば、あんなことは起きない。」M田さんの言葉は、フェリペと交わした最後の言葉と重なった。

「プーノのガイドからも、最後に同じことを言われました。」

僕は、彼との最後のやりとりをM田さんに話した。

彼女は頷きながら、

「現地の人に聞き流されず、そう言ってもらえたのはよかったですね。本音を聞けたということですから。旅行中には、あまり込み入った政治の話はしないのが原則ですけど、そうなってしまったら、添乗員さんには、こちら側の事情を汲んで、お客さんと接して欲しいんです。日本人は、自分の国の政治だけを基準に考えて、日本の政治の悪口を散々言うくせに、ペルーで面白くないことがあると、すぐに『日本なら』と言うんですよ。あれ、外国では不評だと思いますよ。」

「Mちゃん、言うねえ()

カウンターの内側から親方が突っ込んだ。

「あ・・・私、何を言ってるんだろ・・・ごめんなさい。ただ、これだけは!日本人が政治を語る時は、だいたい評論家気取りです。選挙の結果などで、生活が急に変わる人って多くないでしょ?こっちは違うんです。誰が当選するかで、急に生活が変わることがあるんです。ペルー人にとって、政治は評論するものではなく、いつでも真剣勝負なんですよ。」

この会話で思い出すのは、アメリカ大統領選挙を取り扱った、ある日本の番組での出来事だ。詳細は書かないが、ある大物芸人が選挙結果について述べると「ぬるま湯の日本政治に浸かっているとそういう考え方になるのは分かる」と、たしなめられた。あのやり取りの場面を見て、僕は、M田さんに言われたことを思い出した。

とにかく、最初から最後まで、いろいろ勉強させてもらえたツアーだった。

 

いよいよペルーを出国だ。M田さんとは再会を誓って、セキュリティーの前で別れた。

出国後、年配のお客さんが言った。

「今回は、いろいろあった旅だったねえ・・・。」

「いろいろ・・・ありましたかね?天気にもガイドにも恵まれて、いい旅だったと思いますけど。」

「ええ!?いろいろあったじゃないか。大きな停電でしょ、高地で体調崩した人もいたでしょ、暴動でしょ・・・あんた、何も思わないのかね!?」

「ああ・・・そういえば。」

「あなた!添乗員さんなら、それくらい当り前なのよ。」

奥様が助け船を出してくれた。「当たり前」ということはないが、ここは黙っておいた。

行程的には、無事に終わった旅だった。だが、確かに、安全を期待してツアーに参加したお客さんからすれば、いろいろあった旅だったかもしれない。

 

僕にとっては、「いろいろ」よりもM田さんをはじめ、三人のガイドから学んだことが、あまりにも大きな仕事だったのだ。

 

おわり

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※内容は、すべて2009年当時

 

ペルー紀行は、場面を変えて、これからも時々続いていきます。

翌日、僕らはナスカの地上絵の観光をこなした。冬だけあって、早朝に濃霧が出たが、朝の9時くらいには飛行が始まり、無事に遊覧飛行を終えた。

ペルーのツアーは、「マチュピチュとナスカがうまくいけば成功」と言われている。このツアー客の雰囲気も、まさにそれだった。遊覧飛行の様子を見て、僕は「勝ったな」と、確信したのだった。

実際は、チチカカ湖やクスコなど、「来てみたら想像以上に素晴らしく、感動した」というところも多く、本当に退屈しないのがペルーだ。

最終日、このツアーでは、バジェスタス島を訪れた。日本のツアーで訪れることは稀で、一般旅行者では、知らない人も多いと思う。ペルーのガラパゴス、或いはリトル・ガラパゴスなどと呼ばれており、野生の鳥やアシカなどをボートの上から、島の周辺を観察する。島を囲む海にはプランクトンが豊富で、多くの魚が集まってくるため、それを求める多種多様な鳥やオットセイなどが、溢れるように生息している。そこら中に鳥の鳴き声が響き渡る様子は、ある意味異様だ。ちなみに、観光の時は、鳥の糞爆弾と、充満する鳥の糞の臭い対策が必要になる。

しかし、そんな対策に対して、欠片ほどの面倒を感じないほど、ここの風景も素晴らしい。

「ペルーの観光はすごいなあ・・・。こんなところに、こんな立派な島があるなんて・・・。ねえ、ツートンさん、今回歩いたところで、一番標高が高いところはどれくいらいでしたっけ?」

4335mです。」

「うーん・・・、ここは海抜0mだから、高低差4335mの旅かあ。そんな旅行することは、なかなかないだろうなあ。それにしても、ペルーって、上から下まですごいんですねえ。」

楽しんでいただけた実感が伝わってくる言葉だった。確かにペルーは、一日一日の景色の変化が劇的だ。

観光を終えて、リマからの帰国に向けてバスを走らせた。

ピスコという街にさしかかった。コスタでは、ピスコ辺りが天気の境界線となる。この時期、ここからリマに向かう北側は常時曇っていて、ナスカへ向かう南側は晴れている。航空機でアンデスに向かう時、機内から眺めた「空の切れ目」を、ここでは下から眺められる。

 

バスが、リマの手前、最後の休憩所に着いた。ここは、元Jリーガーがオーナーであることで知られている(2014年まではそうだったが、その後は知らない)。名前は忘れてしまったが、川崎フロンターレの選手だった人だ。サッカー選手なんて知らないお客さんでも、記念写真だけは撮るのだから、ゲンキンなものだった。働いている人たちは、日本人と日系ペルー人。日系人の日本語は、すぐわかる。どこかたどたどしい。アメリカ大陸在住の日系人は、日系同士で結婚し続けていても、日本語を話せない人が多い(ブラジルやアルゼンチンなど、それが当てはまらない国もある)。

 

バスの中で、M田さんが説明した。

20世紀半ば、日本人排斥運動がペルーでおこった。移民の中でも、特に器用で賢い日本人が裕福になったことに対するひがみ、やっかみであったとされるが、第二次世界大戦時は、すさまじいほどの日本人たたきが行われたという。

町の中を歩いているだけなのに、日本人というだけで逮捕され、日本へ強制送還されて、家族と離れ離れになってしまった。

あるいは、覆面でを被った強盗数十人が裕福な家庭に夜中に飛び込んできた。身体的な暴力こそなかったが、貴重品はすべて持ち出され、家の中は徹底的に荒らされた。家族は、放心状態で朝をむかえた・・・。

また、日本人だというだけで、仕事につけないことも起こったという。

それらを、警察に訴えても一切動いてくれない。それどころか、警察そのものが敵になることも多かった。アメリカと関係が深かったペルーで、日本人は憎悪の的となった。

移民としてやってきた日本人は、帰国するわけにもいかず、身を守る術を考えるようになる。

ひっそりと、人目につかないように生きるため、日本人ということを、隠すようになった。何人かと聞かれても、日本人ではなく、ペルー人と答えるようになっていった。

「日本語で挨拶されると、つい反応してしまい、日本人と分かった途端に、暴行などを働くというトラブルが相次ぎました。悪質な悪知恵です。自分が痛い目に合わないようにするために、同じ日本人を売るという行為もあったようです。」

そういったこともあり、誰から話しかけられようが、日本語には反応しないようになっていった。

「ところがです。子供は、嘘をつけないわけですよ。大人のような警戒心を持ち合わせていませんから。優しく挨拶されたら、礼儀正しく反応してしまう。迫害するほうもいろいろ考えます。最後は、見極めのために子供を狙ったのです。」

そういう時代の中で、ついに日系人は日本語を捨てた。日本人同士でさえ、日本語を話すのをやめた。

所有していた日本語の書物を処分した。あるいは隠した。

「とにかく日本語を使うことは、常に危険が伴いました。子供が話さないようにするにはどうすればいいか。最終的には、『日本語を教えてはいけない』というところに行きついてしまったのです。生きるために、引き継がれなかったのですね。」

こうして第二の遺伝子とされる言葉を、ペルーにおける日系人は失ったらしい。20世紀最初から半ばまで、移民としてペルーにやってきたのは、日本人だけではない。中国人、韓国人、インド人・・・様々な国の人たちがいた。世代を経ても、彼らが「母国語」を話せるのに、日系人だけが自分たちの言葉を失ってしまったのには、このよう背景がある。

 

僕は、アンデスでお世話になったガイドのフェリペの話を思い出していた。彼は、日系のフジモリさんを、迫害どころか絶賛していた。これも時代の流れなのかと考えていると、M田さんの話もそこに及んだ。

「戦争が終わって、日本人への迫害が、すぐになくなったわけではありません。戦後しばらく経って高度成長期に入っても続いたと言われています。長い間、ひっそりと隠れるように生きている日系人を変えたのがフジモリさんです。彼が選挙に出馬するときは、日系人の大半が批判的だったそうです。『ようやく手に入れた平穏な暮らしを、あなたのせいで失うかもしれない』という内容の手紙が、頻繁に届いたと言います。」

しかし、時代は変わっていた。日本は、ペルーにとって関係を深めたい国になっており、日系人のフジモリさんが政治の表舞台に立ち、橋渡し役になることを期待された。歓迎された彼の政策により、インフラ、教育制度と設備が著しく改善され、ペルーはずいぶんと近代化された。その後、囚人となってしまったが、当時の彼の業績は、今でも評価されている。

フジモリさんほど、報道と現地での評判が乖離している政治家も珍しい。少なくとも、僕は現地で悪口を聞いたことがない。それは必ずしも、僕らが日本人のグループだからということでもなさそうだ。

 

誇りを取り戻した日系人の中には、かつて自分たちの先祖が話していた日本語を習い始めた人も出てきた。初めて、ペルーで仕事をしたとき、コスタを案内してくれたのは、日系ペルー人の女性だった。彼女は、自分の日本語をしきりに気にしていた。

「私の日本語は大丈夫ですか?実は、18歳までは全く日本語を話せませんでした。両親も話せません。こっちの大学で日本語を勉強して、そのあと沖縄の語学学校に行って覚えたんです。」

当時は、「まったく問題ありませんよ。きちんとした日本語です。」と軽く返したが、M田さんの話を聞いて、「日系人が日本語を学ばないと話せないという事実」を、歴史を通して重く考えた。

 

「こういった歴史は、ペルーに住んでいる日本人の頭の中に、しっかり刻み込まれています。その時代を知らない私たちだって、絶対に覚えていなくてはいけないことなのです。」

 

ひじょうに聞きごたえのある話を終えて、バスは夕食のレストランに辿り着いた。このツアー最後の食事は、美味しい日本食だった。

 

次回、最終回。

 

※コスタの風景などは、別の機会に紹介します。

A子さんはベテランの女性ガイド。落ち着いた接客と、安定した案内で、お客さんたちからは好評だった。

だが、申し訳ないが、なにか物足りない。お客さんたちは楽しそうだし、段取りも申し分ないし、まったく問題ないのだが、なぜか物足りなかった。2回続けて同じところに行って、最初の案内人の内容が良かったり、相性の良さを感じたりすると、時々そんなことがある。

今度は問題なく、プーノからリマまで空路移動して、そこからナスカ近郊へバスで移動した時のことだ。お客さんが疲れて眠ってしまい、僕とA子さんでお話をした。

「まあ、2回連続でペルーですか。ずっとこっちでお待ちになっていればよかったのにね。」

「本当にそうです。日本から南米のフライトは長くて。何度来ても慣れません。」

そこから、会話が発展してお互いが一緒に仕事をしたことがあるガイドや添乗員の話になり、M田さんに話が及んだ。

「彼女はすごいのよ。子供のこととか聞きましたか?」

「聞いたどころか、バスの中でみなさんに話してました。ペルーの行政サービスに絡めて、とても上手に。」

「そういうふうに話が出来る子なのよ。しかも、最近は、時々帰国できるようになったみたいだし。」

A子さんは、時々日本にいくことはしないのですか?」

「しないんじゃなくて、できないんです。ペルーって物価が安いでしょう?通貨も弱いの。インフレが怖いから、ギャラはドル建てでもらってるんだけどね、日本までの航空券代を出せるほどはもらえませんよ。家族全員分なんて、とてもとても・・・。」

「帰ってるって話は、けっこう聞きますけど・・・。」

時々、複数の日本人グループが同じホテルに宿泊する時、いろいろなガイドさんから話を聞くことがある。その時、「この前日本に帰った時・・・」という話を聞くことがあった。

「そんなに頻繁に帰ってる人はいませんよ。たった一回帰った話を、ツートンさんが『時々帰ってる』というニュアンスで受け取ってしまったということだと思います。ペルーにいると、外国は遠いんですよ。日本から見たペルーよりも、ペルーから見た日本のほうが全然遠いの。ガイドのギャラだけじゃ、とても気楽には帰れない。主人との収入を合わせても、無理ですね。」

「そういえばM田さんは、翻訳の仕事もされてるって言ってましたね。」

「そう!翻訳の仕事だって、誰にでもできるわけじゃないんですよ。私も、一度声をかけられたんだけど、とてもじゃないけど無理だった。考えてみたら、M田さんのスペイン語の上達具合って半端なかったんですよ。あんなに早く上達した人はいない。今は、ネイティブに近い感じで話してますよ。そうね。彼女みたいにガイド以外でも、使える能力がある人は、稼いで、時々日本に行ってるかも。本書いたり、写真家として稼いだり。

あの人が、ペルー在住ガイドのスタンダードだと思わないでくださいね。」

「そんなにすごいんですか。」

「そうですよ。子供が日本とペルーのどちらかを選べるようにと言っても、実行するのは並みじゃない。日本人学校の費用だって高いんだから。普通は、地元の国立学校に行かせるのよ。それだって学費は無料だけど、教科書以外の備品は個人出費だから馬鹿にならないのに・・・。」

「そこは、結婚してないから、ペルーに縛られないで、お子さんが日本でもペルーも選べるようにって言ってました。自分にも将来、帰国の選択肢を残しておきたいと・・・でも、それを実現するのは大変だってことですよね。お話を伺ってよくわかりました。」

「考えるだけでなく、次々にそれを実現するM田さんは立派ですね。最初は、みんな『いつ日本に帰るんだろう』って、思ってたの。まさか、逆の発想で、ずっとペルーに残ってこれだけやるなんて・・・。私みたいに、旦那と息子二人の生活で落ち着いて満足している人もいるし、人それぞれですよね」

そして、急に笑顔になった。

「彼女、前はガイドの集まりには、ちっとも来なかったの。大変だから仕方ないんだろうけど。最近は、たまに顔を出すようになったんですよ。それと、一回だけ、ガイドとは違う仕事をしてみようかって話になったことがあるんです。」

「パラグライダーですか?」

「え?聞いたの?あれ、誘ったの私なんですよ、実現しなかったけど()

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A子さんは、僕と仕事でお会いする前に、M田さんの会話の中に登場していた。

「私が今、32歳。美亜が20歳になった時、私、まだ40ちょっとです。皆がいう『自分の時間』は、それからゆっくり楽しむのだって遅くない。今、やっと友人たちとお酒を飲むという楽しみを、ちょっとだけ覚えました。楽しいですね、あれ()

きっと、友達の1人はA子さんに違いない。

「お手伝いさんが、娘に言ったらしいんですよ。『大人には、そういう時間が必要だから、たまには行かせてあげて』って。美亜が『ママ行ってきて』って言ってくれたので、甘えさせてもらったんです。で、参加したら、友達と飲むってこういうことかあって初めて分かりました。それ以来、時間がある時は、たまーに参加するようになりました。」

たかだかちょっと飲むだけで、これだけ楽しそうに話すなんて、どれだけストイックなんだろう。

「一度だけ、ガイドでも翻訳でもなく、別のことで稼ごうって、友達から誘われたんです。リマの海沿いで、パラグライダー体験のアトラクションを運営しないかって。ガイド仲間で、すっごい儲かってるのがいて、この流行りに乗ってみるのはどうかと。・・・・・・でもね、いろいろ突き詰めて、友達と話し合ってやめたんです。流行りがあるということは、廃れがあるってことですから。ここは堅くいこうと。ガイドと翻訳で、安定して稼いだほうがいいんじゃないかなって。ペルーから日本人観光客が消えることはないと思うし。」

突っ走るだけ走った後、最後の判断は、それなりに手堅い。

 

M田さんが、ペルーに留まっているのは、すべて、子供のためだ。

「親不孝だと思うでしょう?・・・私もそう思います。でもね、親を取るか子供を取るかと言われたら、絶対に子供なんですよ。ひどいことを言ってるかもしれないけど、本当にそうなの。子供を持つとよく分かる。だから、子供にとって何が最良なのかを考えて、すべてを決めています。母親も、実際に今の環境を見てからは、私の判断に賛成してくれています。

でも、まだまだこれからです。娘が大きくなって、自立したら、九州の両親に会いに行く機会も増えると思います。だから、二人には、まだまだ元気でいてもらわなきゃ!」

 

すごいなあ・・・とただ感心していた。話を聞いているうちに、M田さんがどんどん大きく見えてきた。時計は、11時半を回っていた。次の日に備えて僕らは席を立った。

 

この時の会話は、いいリハーサルになったようだ。彼女は、移動中のバスの中で、この内容を、ペルーの社会システムや教育システムを交え、より分かりやすく、聞きやすくお話してくれて、お客さんたちには大好評だった。

 

つづく

 

※この話は、2009年に書いたものをリメイクしたものです。当時、M田さんからは、SNSでの投稿を許可していただきました。なお、M田も美亜(Mia)も完全な仮名です。娘さんにスペイン語でも日本語でも呼べる名前をつけたのは本当で、インターネットで、スペイン語の女性名の中から、そういう名前を選びました。

出産後も、ペルー行政の手当は受け取れる。この時点で日本帰国という選択肢も脳裏にあったが、生まれたばかりの赤ちゃんに、日本までの長い空の旅をさせることには抵抗があった。

「母親は、ビザなしで滞在できるギリギリの期間までいてくれました。」

「ビザなしのギリギリ・・・180日くらいでしたっけ?ずいぶんといてくれたのですね。」

「孫がかわいかったんですよ。美亜の祖母が、二人ともずっと傍にいてくれて、本当に心強かったです。でも母親は、そこが限界でもありました。実家のこともあるし、日本と全く違う環境での生活に疲れてましたから。その時点では、私が、わりと早く帰国すると思っていたみたいだし、元カレのお母さんもいたから、と安心して帰りましたよ。」

 

その後、仕事は、現地の旅行手配会社で続けることができた。そして、それまで単身だったという彼女の意識を美亜さんという存在が変えていった。

「しばらくこちらで過ごすとして、子育て費用を考えると、給料が少し低いと思ったんです。ギャラそのものは、ガイドのほうがいいということも分かりました。でも、当時の私のスペイン語力では、現場での折衝などを考えると、まだ無理がありました。元々、会社の費用で語学学校に行かせてもらっていたんですけど、スペイン語の学習時間を増やしました。言葉は、本当にやる気次第でどうにかなるから、あっと言う間に上達しましたね。元カレがペルー人というのもよかったかも。付き合っている間は、ずっと生きたスペイン語に接することができるから。」

子供のためとはいえ、すごいパワーだ。語学の習得と、ガイドライセンスの取得。

「三年くらいして、初めて翻訳の話もいただいたんです。これで、旅行のオフシーズンでも、しっかり収入を確保できると思いました。」

「さっきから聞いてて気になったんですけど、それだけのものを習得するには、プライベートの時間を削らないと難しいですよね。自分の時間はなくても平気だったんですか?」

「私、日本で大学に通っていた時、勉強が大変でほとんど、今時の学生らしい遊びってしたことなかったんです。合コンもしたことないの。こっちに来てからも、最初は仕事をおぼえるのが大変で・・・。『自分の時間』という概念がなかったですね。だから、子供ができたからと言って、『自分の時間がなくなる』という感覚もなかったんですよ。本当に、全然実感としてなかったな。20台で、なにかに夢中になったことってあるでしょう?それが私には美亜を育てることで・・・いや、今もそうかも。」

「帰国の選択肢がなくなったのは、ガイドと翻訳の仕事を手に入れてから?」

「・・・そうですね。私が選択したもので、親にとって、一番ショックだったことですね。。」

以前にも書いたとおり、彼女が帰国を選択しなかったのは、美亜さんの教育と、それに必要な収入のためだった。日本で彼女が得られそうな収入なら、ペルーで稼いでペルーで学ばせたほうが、よりよい教育を受けさせてあげられると思っていた。

 

私大外国語学部の最高峰で学んだM田さんなら、日本でも翻訳の仕事を手に入れられそうな気がしたが、そうでもないらしい。

「逆ですよ。あそこで2年間学んだから分かるんです。あの、厳しい環境で、4年間語学を学んで、さらに日本の社会でもまれるて、日本で翻訳を生業にしている人たちは、そうやって仕事を得ているんですよ。翻訳を意識しながらスペイン語を学んでいない私が、太刀打ちできる相手じゃないんです。私にできることなんて、日本ではなにもない。」

厳しい環境で勉強したからこその冷静な分析だった。

「あとね・・・」

少し、深刻な顔をして彼女は続けた。

「日本に帰ったら、子供のいじめもこわいの。」

「いじめ?」

「日本人て、みんな肌と髪の色がいっしょでしょ?だから、美亜みたいな子がその中に入ったら、きっといじめの対象になる。目立っちゃうから。子供って残酷だもの。そういういじめは、大人になっても『差別』として心の傷になって残ってしまいます。」

確かにいじめはありそうだ。いつか日本の地方都市で、ある東南アジア系のハーフの少女が、クラスで一年以上いじめられて、自殺に追い込まれたという悲しい事件があった。その事件は、M田さんと仕事をした後の話だが、彼女の心配事そのものだと思う。

「こっちでは、肌や髪の色が違うなんて当たり前だから、子供同士では、それが理由のいじめはおきにくいんです。日本人学校でもです。みんな慣れてるから。移民の国、ペルーのいいところです。ただ、大人になったら話は別ですよ。この国では、なんだかんだで力を持っているのは白人だから。高級住宅に住んでるのも、高い収入を得ているのも、みんな白人。失業率が高くても、白人はなにかしらの仕事を得ている。でも、そういったことは、大きくなりながらだんだんと気づいていけばいい。『そういうことなんだ』って、冷静に見極められるようになるのが一番です。逆に大人になってからだったら、日本のほうがいいかもしれない。『日本語を話せる外国人』、あるいは『外国で暮らしていた日本人』というのは、貴重な存在ですから。

そういうこともあるから、・・・今日もお話したけど、将来子供が、日本かペルー選択できるようにしておきたいんです。」

「そこまで考えているのですか。すごいなあ・・・。」

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「確かに、そこまで考える人は、なかなかいませんね。というか思い付きません。仮に思い付いたとしても、実行は難しいと思います。」

M田さんの案内が終わって帰国した数日後、僕は、再びペルーに来ていた。前ツアーのガイドさんが誰か聞かれて、M田さんの話になった時、現地ガイドのA子さんは言った。

「あれは、彼女だから実行できているんです。」

元彼は、仕事の都合で家を出ていて不在だったが、彼の母親は、ただならぬM田さんの様子を見て、話を聞いてくれた。

「具体的な援助なんて、全く当てにしていませんでした。せめて助言・・・いや、まずは気持ちを分かってくれそうな人に話を聞いて欲しかったんです。」

「堕ろせ」とは一切言われなかった。

「あの方は、カトリックだから。じっくり話を聞いてくれた後は、『産む』ということを前提にアドバイスをしてくれました。」

 

移民に優しいペルーでは、就労ビザさえ取得しておけば、妊婦はある程度の待遇を受けることができる。

「あなたは、旅行会社で働いているのだから、就労ビザは持っているのでしょう?すぐに手続きしなさい。」

元カレの母は、何も知らないM田さんに、知り得る限り行政サービスのすべてを教えて、実際の手続きまで手伝ってくれた。

「あの人がいなかったら、出産できなかったんじゃないかなあ。本当に感謝しています。」

つわりがひどい時は、M田さんのアパートにいりびたりになって面倒を見てくれた。食事も、食べやすいものを、よくつくってくれた。

「『私のかわいい孫娘がここにいるのね』ってよくお腹をさすってくれましたよ。」

 

臨月が近づいていた。勘当同然で連絡を取っていなかったとはいえ、その時の自分の状態は、日本の家族に伝えたかった。

「妊娠を知らせて数か月経ってました。きっと心配にしているに違いないと思って。」

元カレのお母さんの助けのおかげで、多少、心に余裕ができたM田さんは、日本の両親に電話をかけた。

「本当に産むのか!?」

ご両親は、彼女が帰国するものと思っていたらしい。二十歳そこそこのM田さんが、異国でなす術なく傷心で帰国しようとしたら、受け入れようと連絡を待っていたということだった。

「まさか出産までこぎつけるとは、しかも、元カレのお母さんが、自分の娘を助けてくれているとは想像していなかったみたいです。そりゃそうですよね。」

そして、ついに日本から実の母親がやってきた。

「嬉しかったですよー。『やっぱり私のお母さんだあ』って思いました。」

当時のことを思い出したのか、少し目が潤んでいる。

「それで、私の狭いアパートに、日中は母親と元カレのお母さんの三人でいたんです。お互いに言葉が通じないから、会話は全部私の通訳です。」

「それは、けっこうな重労働だったんじゃないですか?」

「まあね。でも、楽しかったですよ。国をまたいでも女同士の会話って同じだと思いました。それに、母親は、私の心理的な助けになっても、買い物一つに不自由してしまうほど、海外には慣れていませんでしたし、その他のことでも、元カレのお母さんの助けが必要でした。2人とも、自分でできることを私のためにしてくれて・・・。どうしようか悩んでいた時期が信じられないくらい幸せに感じてました。」

「ある時ね、だるくて、ベッドで横になっていたんです。そうしたら、母たちが、自分たちだけで会話してるんです。もちろん、日本語とスペイン語で。これがけっこう噛み合ってて笑っちゃって()

『なんでわかるのー?』って聞いたら、二人とも笑いながら『分かるわよ。当たり前よ』って大笑い。三人でしばらく笑っていたら、私、涙が出てきちゃって。」

 

「その時、心から安心している自分に気付いて・・・『ああ、私、ちょっと前までめちゃくちゃ不安だったんだあ』って・・・。元カレのお母さんが、あんなによくしてくれると思わなかったし、母親がペルーまで来てくれるとも思わなかったし、2人があんなに仲良くなるとも思わなかったし。」

精神的に安心できる材料がすべて揃った。

「産んでいいんだ。(お腹をさすりながら)この子は、生まれた時に祝福されるんだって、初めて確信できたんです。そしたら涙が止まらなくなっちゃって。」

そして彼女は、女の子を出産した。名前は美亜。元カレの母親は、今も美亜を大切にしてくれている。

「漢字で書いたら美亜。アルファベットならMia。日本でもこっちも通用するような名前をつけました。」

 

「『自分のお腹にいる赤ちゃんを殺せるものか!』っていうのが産めた一番の理由ですね。でも、今、考えてみると、二十歳そこそこで若かったというのもあります。社会の厳しさとか、子育ての大変さなど全く考えなかったし、思いつきもしませんでした。」

 

「今だったら、きっといろいろ考えてしまうと思うんです。30歳くらいになると、どうしても、世の中の怖さが見えてくるじゃありませんか。それを大人になったとか言うのかもしれないけど。

今の年齢で、同じようなことがおこったら、産まないという選択もありえたかもしれませんね・・・。若さの勢いっていうけど、私にとっては、あの時がまさにそれ。でも、だからあの時に妊娠してよかったと思います。」

「どうして?」

「美亜は、私にとっては世界一の宝物だもの。産んで、ここまで育てて本当によかったと思ってるの。ずーっと、そう思え続けることができるのは、あのタイミングで産んだのもあると思うんです。それに、美亜がお腹から出てきてからは、考えるべきことはあっても、迷う時間はなかったわ。」

彼女の口調は、だんだんエネルギッシュになっていた。

「『一人でちゃんと育てられるの?』と言われたら、育てるしかない!『学校に通わせられるの?』と言われたら、当然通わせるしかない!『仕事は?』『子供の世話は?』全部なんとかするしかなかったんです。」

 

母親になった彼女にとって、そして全ての母親にとってそうであるように、出産は、始まりだった。

「こんばんは。」

「あら、こんばんは。今からお食事ですか?」

「M田さん、明日の案内も楽しみにしてますよ。よろしくお願いします。」

挨拶を交わしながら、食事を終えたお客さんたちが、次々と席を立ち始めた。大半の方々がお帰りになり、その流れで僕も席を立つと、M田さんから声がかかった。

「ツートンさん、明日の打ち合わせをしましょう。」

同じタイミングで帰ろうとしていたお客さんたちが、「お先に。」と軽く挨拶して帰っていった。

 

僕は、M田さんの正面にかけた。

「どうしたんですか?何かお話でもあるんですか?」

打ち合わせは、チェックイン直後に終わっていた。手配に関して、重要な変更の知らせでもあるのかと、少し不安になっていた。

「いえ。ちょっと食事を一緒にしていただこうかと思って。一人でするのもなんだから()

「・・・そういうことですか。」

「そういうことです()

そうは言っても、やはり多少は仕事の話をする。ナスカから、少々離れたイカという街に2泊しながら、遊覧飛行以外の時間を、どのように有意義に使うべきか話し合った。

やがて、世間話に話が移っていく。

「最初、この仕事断ろうと思ったんです。」

突然M田さんが言った。

「どうして?」

「イカに2泊でしょ?そうすると、子供の顔を丸々一日見ない日ができてしまうの。しっかりしていると言っても、あの子、まだ10歳だし。なるべくそばにいてあげたいんです。1泊なら、その日の夜にいないだけだから。」

「ひょっとして、食事の時間をお客様に合わせなかったのは・・・」

「子供と電話で話していたんです。今日は、長い一日だったから、夕食遅かったでしょ?終わってからだと、遅くなって子供に悪いから。」

「寝ないのですか?」

「私が仕事で外泊する時は、必ず電話することになってるんですよ。娘は娘で、話したいことがたくさんあるから、眠くても待ってるんです。」

 

そんな会話の過程で、つい、僕は口に出してしまった。

「・・・よく産みましたね。」

「え?」

一瞬、「あ、言ってしまった・・・」と思った。

一部のお客様が言っていた「親不孝」。これについては、僕も多少は感じていた。今、M田さんは、お嬢さんと二人でとても幸せそうだ。結果的にそうなっているが、外国で、しかも一人で子供を産むということは、男性の僕では、想像できないほど大変だったのではないか。日本の家族が賛成しなかったなら、「産まない」という選択肢もあったと思う。そこが引っかかっていた。

「いや・・・外国で、一人でよく子供を産んだなって・・・。」

「ああ!(笑)私もそう思いますよ。今となっては。」

「今となっては?」

「今となっては。」

お腹に子供がいると分かった時は、大パニックになった。また、相手の彼氏とは、すでに別れていた。

妊娠を医師に告げられ、決断を迫られたものの、動揺だけが深まるばかり。

「どうしよう・・・どうしよう・・・どうしよう、どうしよう!そればかりでした。20代の恋愛って、まさに『恋は盲目』以外なにものでもないでしょ?付き合ってる時は、彼氏が大好きだったんです。私自身、若くてまともな恋愛をしたことがなかったから、余計にそうでした。」

彼氏と付き合っていたのは20歳の頃だ。まさに、男女ともに、「恋に恋するお年頃」だ。

「ところが、冷める時はあっという間なんですよね。あの年齢の恋って。結局、話し合って別れることになったんです。私が別れたかったのかな。つまり・・・」

彼女は、少し間を置いてから言った。

「妊娠は、私が望んでいたものではなかったんです。まだ彼を愛してた、それよりも数か月前なら、ものすごい幸せだったと思うんだけど・・・。」

しかし、医師にエコー(超音波画像)に写った小さな新しい命を見せられた時、考えが変わった。胸がいっぱいになった。当時、彼女はまだ21歳。

「その時、決心しました。絶対に産もうって。」

「・・・・・・・。」

「家族は、猛反対!特におばあちゃんはね・・・。勘当するとか言って、本当に連絡をくれなかったの。でもね、赤ちゃんがお腹の中で生きてるんですよ。私も、それを感じたら、中絶なんて絶対にできなかった・・・。それって、殺すってことじゃないですか。どんなに大変な思いをしたって産むほうがいい。殺すものかって。」

妊娠していれば、当然体調の変化もある。彼女は、自分が勤めていた手配会社の人間にいろいろ相談したが、当時、日本人で結婚していても、出産経験のある同僚がいなかった。そして、みんな、何よりも仕事が忙しかった。

 

M田さんは、藁にもすがる思いで、元カレの家に連絡を取った。彼の家には遊びに行ったことがある。家族も紹介されていて、顔見知りではあった。別れた自分が、しかも、どちらかというと別れを切り出した自分が、今更連絡を取っていいのかという葛藤はあった。

だが、人脈に乏しい異国において、それが唯一思い付いた連絡先であり、唯一頼りにできるかもしれない連絡先であり、最後の希望だった。

「どうして大学を辞めちゃったの?よく親が許してくれましたね。そんなに嫌だったんですか?」

「嫌ではなくて、結局、大学でやることに興味が持てなかったんです。悪くない大学でしたよ。」

大学名を聞いて驚いた。私大では、日本有数のレベルを誇るところだったからだ。

「え!?学部は?」

「外国語学部です。」

お客さんとのやりとりを見ていた僕は、少しイラッとした。彼女が中退した大学の外国部学部は、僕が受験生時代の第一志望だった。「自分が強く憧れながら合格できなかったのに」、という嫉妬だった。

「スペイン語学科ですか?」

「いえ・・・ロシア語学科です。」

「え?」

「(照れ笑いしながら)いえね、私、受験時代に、妙にその外国語学部にこだわってて、そこならなんでも良かったんですよね(笑)。文化的にはラテン系のほうに興味があったのに、当時のレベルで・・・まあ、偏差値なんですが、一番合格確率の高いところ受けて、それで入れちゃったんです・・・。」

こんな言い方をしているが、実際は、そんな簡単な思考で入れるところではない。

「2年間は、いろんな意味で自分を納得させようと思って必死に勉強したんですよ。ロシア語学科って講義が厳しくて、遊ぶ時間どころか、アルバイトする時間だってまったくありませんでした。それに不満はありませんでしたよ。かえって、勉強に集中できましたから。それで、納得するまで勉強して、ロシア語学科の勉強は、自分のやりたいこととは違ったって確信して、親に相談したんです。相手にされなかったけど。」

それはそうだろう。しかも、留年が多いことで有名な、その大学のロシア語学科で、授業にはついていけていたらしい。

「ちょうどそのころ、高校の先輩が、海外旅行の手配会社に勤めてて、ペルーに行ける人を探していたんです。学歴は不問でした。英語ができれば、スペイン語は、現地で学校に通いながら身につければいいと言われました。大学を卒業しなくても雇ってもらえる、しかもやってみたい仕事が目の前にあったんですよ。条件などをいろいろ聞いて、決めてしまったんです。」

「親はなんて・・・。」

「東京と九州で離れてましたからね。説得はしやすかったです。ただし、それならば帰国した時の編入先は準備しておくことが条件と言われて、別の大学に編入手続きをとって、休学という形にしたんです。全然行く気なかったけど。」

この手の編入を受けつける大学は、実際にある。編入は、4年制なら、短大卒、または四大卒の2年間分の単位を取得済みなどが条件になっているところが多いようだ。

「両親は、案外簡単に折れたけど、猛烈に反対したのは祖母でしたね・・・。私、孫の中では一番可愛がられてたんですけど・・・。そのあと、急に態度が変っちゃいました。」

彼女は、この時だけ、ちょっと悲しそうな顔をした。

「両親がこちらに来てくれた時、家族の写真を撮って、それは見てくれたみたいんなんです。私にも孫にも『会いたい』と思ってくれていたらしいんだけど、いざ、電話が来ると、頑になっちゃったんですって。おじいちゃんは、早くから許してくれてたんですけどね・・・。」

「去年、ようやく実家に帰ることができたんです。私も頑張って、やっと貯えができましてね。もう少し早ければ、おばあちゃんと、きちんとまた仲良くできると思ってたんですけどね・・・。一昨年に亡くなっちゃったんです。悲しかったなあ・・・。一度でも、娘に会わせたかった・・・。」

 

ホテルが近づいてきた。

「おかしいなあ(笑)みなさん、すみません。」

急に何か気づいたようにM田さんが言いだした。

「自分の経験に絡めて、ペルーの事情を話そうと思っていたのに、なんでこんなこと喋ってるんだろう(笑)面白いですか?」

みなさんが、興味深げに頷いた。

「まあ、いいや。ここまで話したら、これで終わるのも中途半端です。また後で、最後まで話しを聞いてください。続きは、明日のバスの中でしましょう。」

 

この日のホテルは、イカという町の郊外にあった。周辺を砂丘に囲まれており、薄暗い砂漠の中で、そのシルエットが浮かび上がっている。

アラブ世界でよく見られるキャラバン・サライ(隊商宿)をモチーフにしたホテルには、大きな中庭があった。入口は小さい。夜になると、重くて頑丈な門が閉められ、外部の人間は敷地内へ入れない。宿泊者も、夜間の外出は、一言ホテルのスタッフに声をかけないとさせてもらえないし、その後帰って来た時のセキュリティー・チェックが大変であることを告げられた。こんな田舎でも、ペルーの治安の悪さを垣間見ることができる。

田舎で、設備に不安が残るホテルではあったのだが、この日は特に問題なくチェックインを終えた。

 

「すみません。私、夕食はみなさんの集合時間とは別にいただいてもかまいませんか?このホテルのスタッフは、みんな英語を話せますから。」

「どうぞ。」

リマからナスカ近郊に遠征する際は、ガイドはグループと同じホテルに泊まる。彼らの仕事は、基本的には観光案内だから、添乗員のように夕食でお客様と同席する義務はない。もし、常に同席しているガイドさんがいたら、気を遣っているか、添乗員に頼まれているかのどちらかだ。

 

夕食時は、2つに別れたテーブルのうち、僕が同席したほうでは、M田さんの話題で持ちきりだった。

「あの人、すごいわよね。二十歳そこそこから、自分1人で子育てしてるってことでしょう?それも外国で。行動力もすごいけど・・・いったいどうやってるのかしら。」

「案内もとても面白い。通り一辺倒でなく、俺たちが知りたい社会や政治のことも話してくれる。まだまだいろいろネタを持っていそうだしね。。大学の先生が、市民講義で分かりやすく楽しい話をしているみたいだ。」

確かに、彼女の案内や考え方は、通常のガイドとは一線を画していた。

「でも、よく子供を産みましたよね。私なら・・・きっと産めない。」

30台半ばの若い女性が言った。

「私もそう思った!そこを聞きたいわね。話してくれるのかしら。でも、M田さんの体験をもとにペルーの行政の話まで聞けるから、本当に興味深い。」

「でも、あれは親不孝だよ。すごい能力とは思うけど、親不孝だ。関係が悪くなったおばあちゃんの気持ちは分かるよ。」

ツアー最年長の男性が言った。そして、

「まあ、聞いてる分には面白いけどね。」

と付け加えた。

「私も親不孝だと思う。私たちの世代なら、あんなことは許されなかった。今は、時代が違うのね。昔は、女は専業主婦になって家を守るのが一番て言われてたのよ。それなのに、ある日、『日本の女は自分だけじゃ生活できない。自立できないからダメ』なんて言うやつが出て来て・・・M田さんを見てると・・・なんか悔しいわ・・・。単なる妬みだけど悔しい。」

奥様が、多少感情を昂らせたような話しぶりで言った。その発言で、会話が止まったテーブルで、しばし間をおいて続けた。

「本当に妬みというか、ひがみよね。それができる環境でも、私にはできなかったと思う。でも・・・」

「分かる、分かります。」

同年代の女性が相槌を打った。

「私たちには選択肢がなかったから。もし、いろいろ選べたら、どうなってたかなとは思います。・・・私もあなたと同じよ。親の立場から見たら、彼女は親不孝に思えちゃう。」

奥様は、すこし留飲が下がったような表情をして、同意してくれた彼女に言った。

「でも、面白いわよねえ・・・彼女の体験談。」

世代や性別によって、M田さんの話の捉え方も評価も違ったが、間違いなくその内容は、みなさんを惹きつけていた。彼女の話は、このツアーにおいて、マチュピチュ、ナスカの地上絵と並んで、旅を満足させる大切な要素のひとつにまでなっていた。

 

僕らの夕食が終わる頃、彼女がレストランに入ってきた。

 

つづく

休憩が終わって、バスは再び走り始めた。

これまで多くの車線があった高速道路は単線になる。100km/hで飛ばしていたバスは80km/h程度のスピードになる。このあたりに来ると、「元不法住居群」ではなく、きちんとした村や町が見えてきて、ほっとする。

地平線を染めていた夕焼けもなくなり、暗くなった。休憩後、バスに乗っておしゃべりしていたお客さんたちは、ふたたび静かに眠りについた。M田さんも眠っていたが、すぐに目を醒ました。

(眠そうな顔で)「・・・寝ないんですか?ツートンさん。」

「ええ・・・。なんかバスで眠るのは、ドライバーに悪くて。」

「ふーん・・・。まじめなんですね。」

まじめというよりも、「バスの中で寝るな」という旅行会社で育てられたからそうなった。スケジュールの都合で、寝ないと体が持たないというような時は、ひとこと断って寝る。ただ、理由もなしに寝てしまうのは、パートナーのドライバーに失礼だ。実際、僕の主戦場である欧州では、よく眠る添乗員の悪口をドライバーから聞くし、「君は絶対に眠らないから好感が持てる」と褒められたこともある。仕事中に居眠りしないだけで好感を持たれる。添乗員の仕事には、そんな不思議なことが、たまにある。

 

「・・・そうですか。私も起きてようかな。いつもは起きてるんですよ。やっぱりドライバーに悪いしね。でも、寝ちゃう添乗員さんてけっこういますよ。ひどい添乗員なんて、私がご案内してるのに寝ちゃうの(笑)」

僕らは、しばし談笑した。お客さんが眠っている間の他愛もない会話。けっこう、これが息抜きになって楽しい時もある。

しばらく会話をした後、少し、間ができた。車は、再び真っ暗になった砂漠の中を走っていた。僕は、「子供はペルーで育てる」という彼女の決心が気になって仕方なかった。

「ねえ・・・。答えたくなかったらいいんだけど・・・。聞いてもいいですか?」

「はい。なんですか?」

「子供をペルーで育てようと思ったのって・・・なんで?」

「ああ!(笑)」

『そんな話したわね・・・』と、いう表情を彼女はした。

「それ!私も気になっていたの!」

後方の席から、奥様がヌッと乗り出してきた。暗い車内だったので、僕もM田さんもビクッとした。

「悪いけど、さっき全部聞こえてたの。ものすごい興味ある!」

緊張感がそがれたついでに、話の内容もそれていき、彼女を交えた談笑となった。

高度障害から解放された奥様はよく喋った。体調を崩して話せなかった分をまとめて話しているようだった。これが本来の彼女の姿だったのだ。表現のひとつとして、失礼な言い方をするのを許して欲しい。もう少し高度障害でいてくれてもよかったのに。

 

僕らの会話で、まわりのお客様たちも目を覚ました。話の流れで、M田さんは、ご自身のペルーに来るまでのことや、実際の生活、マイクを使って話してくれることになった。

「恥ずかしいことではないし、私自身の経験に基づいたほうが、みなさんも聞きやすいと思いますから。」

と、彼女は、休憩前に僕にしてくれた話を、最初から言い直して、ようやく子育てをペルーでする理由を話し始めた。

「いろいろあるんですけどね・・・。ひとつは私の収入の問題です。私、大学3年になる時に、こっちに来たんです。日本に帰ったら高卒です。それでもいいのですが、なんの資格も持っていません。しかも、実家が九州の田舎でして、おそらく、子供を十分に養えるだけの給料をもらえる仕事にはつけないと思いました。そうなると、完全に親に依存することになってしまう・・・。東京の就職事情もいろいろ調べてみたのですが、当時は難しいと思いました。」

「今の仕事はガイドだけですか?」

「ガイドの仕事と他に翻訳の仕事もいただいてます。ガイドだけだと、シーズンによって、かなり収入に差が出てしまいますから。翻訳は、日本語からスペイン語の、もちろん逆もありますよ。こちらの一般的な収入を考えれば、悪くないですよ。」

仕事を掛け持ちしているガイドさんはよく見るが、彼女のように優秀なタイプでは珍しい。

「今の収入と、こちらの生活費と教育費。日本で得られそうな収入と、それに見合う生活や教育を比較した時、帰国するよりも、こちらにいたほうが、高いレベルの教育を受けさせてあげることができるんです。皆さんから見たら、ペルーは発展途上国で何もかも遅れているように見えるかもしれませんが、そんなこともありません。きちんとした教育システムはあるんです。」

「ふーん・・・。そういう考え方もあるのか・・・。」

ふだん、子供は、家では日本語を話しているそうだ。学校は、学費の高い日本人学校へ行かせている。そういえば、写真に一緒に写っていたクラスメイトは、全員日本人だった。

近所の子たちやその親と話す時、お手伝いさんと二人で過ごす時はスペイン語で話す。M田さんが家で食事をする時は、お手伝いさんと三人だが、その時の会話もスペイン語だそうだ。

 

「どちらの言葉も厳しく教えてます。スペイン語は、ふだんの生活で自然と身に着きます。その中で汚い言葉や表現は使わないように注意します。日本語は、私との会話と学校生活だけですから、さらに厳しく教えます。特に「てにをは」と「ある」と「いる」の使い間違いには煩く言いますよ。」

ペルーで生まれた娘さんは、その時点で、ペルー国籍でも日本国籍でも、どちらも選べた。やがて、どちらか選ばなければいけない時が来るが、時間はたっぷりある。その間に、本当に「選べるだけの能力」を身につけさせたいということだ。

「外国に住んでたわりに日本語がうまいというのはだめです。『え?日本にずっと住んでいたんじゃないの?』ってくらいの日本語を話せないと。」

 

今まで、外国で母親になった現地ガイドにはたくさん会ってきたが、ここまで、いろいろ考えて、しかも徹底しているのは、M田さんが初めてだったと思う。たとえば、これまでのペルーのガイドは、みんな「学費の高い日本人学校よりも地元の学校」に通わせていた。

「それは、みんな旦那さんがいるからですよ。うちは母子家庭だし、もう私は結婚する気ないし。子供の教育が終わったら、私の中にも『帰国』という選択肢が出てくるかもしれません。こちらに『永住する』と心に決めたほかのガイドとは、ちょっと考え方が違うと思います。」

 

ペルー人の感覚を持ちながら、教育に関しては、日本のお母さんのような感覚をしっかりとお持ちだった。

 

つづく

昼食は、リマ市内で。この日は豪華な地鶏の丸焼きと、セビーチェという魚のマリネ。やはり、都会の料理はうまい。セビーチェの魚の鮮度は素晴らしく、鳥は外はパリパリで、中はみずみずしく焼けていた。鳥の丸焼きは、見た目はボリュームたっぷりであったが、味がよかったので、多くの方が完食した。ペルーは、どこに行っても鳥の丸焼きの写真を使ったレストランの看板を見かける。国民食なのだろうか?ペルーのガイドブックや紀行文では見かけないから、僕の思い込みかな。でも、うまい。

2014年に最後にペルーに行ったときは、その鳥の丸焼きが半身になっていて寂しかった。「丸ごとだと食べきれない方が多いので」という担当者の話だったが、経費削減ではないかと勘繰った。今のツアーはどうなんだろう。切り身などになっていないことを祈る。

 

そして、いよいよナスカ観光の拠点、イカに向かった。

真っ平らで真っ直ぐな道。リマをはじめとしたコスタの道路事情は優れている。しばらくの間は、8車線ほどある高速道路が続く。やがて、町並みは途切れると、右側には海が見えてくる。陸地は完全な砂漠だ。僕らからすると、不思議な風景だ。日本や欧州であれば、海があり、砂浜があり、砂浜の奥には木々や、場所によっては豊富な緑があるが、ペルーのコスタにはそれがない。ビーチからずっと砂浜が続いているような感じだ。砂漠と海が隣り合っている。ドバイやドーハなどの中東の景色にだぶる。

「海があっても、雨がほとんど降りませんからね。」

ペルーの海には寒流が流れ込む。そのため常に気温よりも水温が低く、水蒸気が出ないため、雨の原因になる雨雲が出ない。この時期によく出る霧は、寒流によって冷やされた海上の湿った空気が、霧になったもので、雨雲とは別物だ。

 

やがて、海が遠くなり、完全に砂漠の中のドライブとなった。すると、今度は、正規の住宅とは思えないような家並みが見えてきた。見た目は不法住居だが、元不法住居で現在は合法だそうだ。ここには、面白いペルーの国としての政策を、垣間見ることができる。M田さんが説明する。

「移民、あるいは貧しくて自分の家を持てない人や、アパートも借りられない人が、材料だけ買って何もないここに、このように家を建てました。10年前(2009年当時から見て)は、ほんのちょっとしか建っていなかったんですけど、今は村くらいの規模にはなってますね。」

「はい。これらの住宅は、すべて違法です。いや、正確には違法でした。ペルーは、日本の3.4倍の面積があります。そのかわり、人口は4000万ほどなんです。つまり、土地が余っているんですね。国が、国力を向上させるための政策のひとつとして、人口増加があります。そのために移民を積極的に受け入れています。不法滞在者を増やすわけにはいきませんからね。」

ふむふむ・・・。

「そして、2008年に画期的な決定をしたんです。不法住居であっても、2004年より以前にそこに住んでいた場合、その土地と建物は、本人のものとして認める。国から無償で与えられるというものでした。」

これにはみんな、「え―――!?」とビックリ仰天した。なんて国なのだろう。ただ、この決定には疑問が残る。住人は、それぞれ、どうやって2004年より以前から住んでいたことを証明するのだろう。違法で不法住居なのだ。不動産の契約書もなにもないはずだ。

「それが、また日本と違うところです。こちらでは、違法で建ててしまった住居でも、役所に行って、書類を書いて提出すれば、『住居証明』といったものを発行してもらえるんです。それが証拠になります。」

「住民票みたいなもの?」

「近いですけど、ちょっと違いますね。住んでいるだけの証明であって、『住民、市民』として認めてもらっている書類ではないのです。」

しかし、それを元に、2004年以前からそこに住んでいた人々は、自分たちの家と土地をまんまと手に入れてしまったわけであるから恐ろしいことだ。

「そのかわり、ご覧のとおり、電気も水道もありません。水は、近くの井戸にまで汲みにいかなければいけません。トイレは、自分でセメントを固めてつくってますね。はい、見せてもらったことがあるんです。信じられないかもしれないけど、日本人の知り合いで住んでる人がいるんですよ()。一応、水洗です。水は、自分で流さなければいけませんが。もちろん、詰まったら自分でセメントを壊して直す。そしてまた作り直しです。いかがですか?(笑)」

これには、一瞬お客さんたちは表情を曇らせた。

「どうしました?」

その様子に何かを感じたM田さんが僕に聞いてきた。僕は、マチュピチュでの停電について説明した。

「あっははは!そういうことですか(笑)妙に実感できてしまうわけですね。」

「でも、土地をもらえたということは、国もこのあたりを放っておかなくなります。道路は、すでにこうやってあるわけですし、電気や水道も通りますよ。いつかはね(笑)。この国のことだから、いつになるか分かりませんけど。」

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日が傾いてきた。お客さんは、皆バスの中で眠っていた。慣れない高地での旅や、その中でのトラブル、あるいは、ただただ存分に楽しんで、それぞれに疲れていた。

起きているのは、僕とM田さんだけになった。

「M田さん、ペルーに来て何年くらいですか?」

「もう12年になります。」

え!?僕は、5、6年くらいだと予想していた。だって彼女の外見からして、年齢は30そこそこだ。ペルーに来て12年ということは、20歳そこそこでこちらに来たことになる。

「私、32歳です。子供は娘が一人いますよ。」

「あ・・・いや・・・そこまで聞こうとは、別に・・・。」

と、言いながら、僕は頭の中で計算していた。彼女は、ちょうど20歳の時にペルーにやってきたのだ。

「いいんです。顔に『知りたい』って書いてありましたし(笑)。それに全然恥ずかしいことじゃないもん。」

そう言って、彼女は携帯に入っている娘さんの写真を僕に見せた。かわいらしい。ペルー人とのハーフだ。

「かわいいですね。ハーフだけど、こちらの顔立ちですね。」

「父親は、白人とインディオのハーフなんです。こちらの顔立ちに見えるでしょ?でもね、ペルーの子たちに混ざると、日本人の顔立ちに見えるんですよ。不思議ですね、ハーフって。」

「ふーん・・・。じゃ、このツアー中は、お父さんが面倒見てるんですね。」

「いえ、私、この子の父親とは、同棲していたけど、籍は入れてなかったんです。ペルーでも、そういうのが流行っていて。この子がお腹にいるうちに、彼とは別れました。」

「・・・・・・。」

「住み込みのお手伝いさんを雇ってるんです。日本では、お金持ちの人だけが、そういうのを雇っているみたいに思われますけど、こちらでは、わりとリーズナブルで、普通に雇ってる人は多いんですよ。」

「大変じゃありませんか。日本に帰って、実家で育てようとは思わなかったんですか?」

「思いませんでした。」

彼女は、凛とした表情でキッパリと言った。窓から夕日が差して、彼女の髪が赤く染まって輝いていた。

「子供はペルーで育てます。」

バスのドライバーが、彼女に話しかけた。村田さんは、2、3回頷き、「OK」と返事をした。

「ここで休憩にしましょう。トイレの数は多いし、アイスクリームもコーヒーも紅茶もみんなあります。『ドリップコーヒーを飲めるのは、ここが最後です。この後は、ネスカフェしかありません』って、みなさんに教えてあげたほうがいいって、ドライバーさんが言ってます!()

凛とした表情は、ふだんお客さんに向ける優しい表情に変わっていた。

 

「子供はペルーで育てる。」彼女にそう選択させたものは、なんだったのだろう。

リマの空港に着いた。航空機から降りて、ターミナルに入った途端に、低地で海沿いのほどよく湿った空気が、体中を満たしていくのを感じた。

「おー・・・酸素が体を満たしていくー・・・。」

と、心の中で呟いていた。僕の場合、高地に行ったと実感するのは、上がった時よりも低地に下りてきた時だ。体に空気が入ってくるのを感じるし、なにより足が軽い。

高地で体調不良を起こしたことはないし、仕事に支障が出たこともない。前回、フクヨカさんを飛行機に乗せる時に大変な思いをしたが、あんなことは稀だ。高地特有の空気の乾燥も、上にいる時はそれほど気にならない。だが、下りてきた時の快感は感じるのだ。

自覚されているかどうか分からないが、お客様の足取りも軽い。顔色もいい。

 

「ツートンさあん!!戻ってこれたんですね!よかったあ・・・今日は来れないと思いましたよ!」

僕らは、M田さんと再会した。お客さんたちも、笑顔で彼女との再会を喜んだ。

リマには1泊しただけだし、M田さんとも一日一緒にいただけなのに、なぜか「帰ってきたんだな」という気持ちになった。

「高山病が・・・」、「デモ、暴動が・・・」など、様々なことを、お客さんがM田さんに話していた。おそらく、けっこう旅慣れたお客さんでも、初めて経験することが多かったアンデスでの滞在だった。伝えたいことがたくさんあるのだろう。M田さんは、天使の笑顔で彼らの話をを包みこむように聞いていた。

その隣には、3人の日本人ガイドの姿があった。そのうち一人は、以前、一緒に仕事をしたことのある男性ガイドで、僕のほうに近寄ってきた。

「お久しぶりです。あの、同じ飛行機に、他に日本人のグループは乗っていませんでしたか?」

心配そうな顔をして、あとの2人のガイドもこちらへ来た。

「いえ、見ませんでした・・・。」

ふと、プーノの街を抜ける時のことを思い出した。上の道へぬけてすぐ、下のメインストリートで、デモの影響で渋滞に巻き込まれていた10台ほどの大型バスが見えた。確か3台は日本人グループのものであると、フェリペは言っていた。僕は、そのことを彼らに告げた。

「あの状態から、上の道に戻って空港に向かっても、おそらく飛行機には間に合わなかったと思います。僕らが搭乗したら、すぐに飛びましたから・・・。」

「そうですか・・・。」

「プーノから情報は入っていないのですか?」

「それが・・・日本人グループだけでなく、プーノに滞在していたグループ全てが巻き込まれてしまったわけですよ。プーノのオフィスは、てんてこまいで、なかなか電話がつながらないし、たまに繋がっても、情報が混乱していて・・・添乗員さんたちも、誰もリマに連絡してくれなくて・・・」

「航空会社からは、『乗れたグループはあるらしいが、どのグループかは分からない。』だから、ほら・・・わたしらだけでなく、いろんな国のガイドがいるでしょう?」

本当だ。確かにいろいろな国のガイドがいる。その中で、実際にグループと対面できたのは、M田さんとあと一人、アメリカ人グループのガイドだった。

僕らは、本当にラッキーだったのだ。宿泊していたホテルの立地、フェリペという優秀なガイド、道悪でもスムーズに走れる中型バスを利用していたこと・・・今回のピンチの中にあって、それを切り抜けるための、あらゆる条件が奇跡的に揃っていた。

 

M田さん以外のガイド3人は、担当グループが、まだプーノにいることが分かったことで、それぞれのオフィスに連絡を始めた。3つのグループのうち、2つはこの日のうちに500km近く離れたナスカまで移動して、翌日に地上絵の遊覧飛行済ませて、その日のうちに帰国という強行スケジュールになっていた。この飛行機に乗っていないということは、かなり深刻な問題だった。

 

「さあ、行きましょう。」

厳しい表情で自分のグループを待つガイドたちの前を通り過ぎて、僕らはそっと空港を出た。騒ぎがおさまった頃、フクヨカさんに歩み寄った。

「体調は、本当にもうなんともありませんか?」

「はい・・・。飛行機の中で、だいぶ楽になってはいたんです。降りたらもうすっきり。なんだったんでしょうね()

彼女は、すっかり回復していた。続いて奥様のところに行った。

「うーん・・・。まだ足がフラフラしてるような感じです。調子悪いみたい・・・。」

「なに言ってるんだ、お前!すっかり良くなってるじゃないか。飛行機乗る前は、ふらふらしてくせに。今は、スタスタ歩いてるぞ。」

ご主人が突っ込みを入れた。僕もそう思っていた。あれだけ気分の悪い時間帯が続いたのだから、弱気になるのは分かる。でも、高地ではふらふらしながら、ゆっくりとしか歩けなかった奥様は、みんなと同じペースで歩いていた。それをご主人から指摘され、

「あらやだ私ったら()

と照れ笑い。その後、声も大きくなり、急に元気になった。まさに、「病は気から」の典型だった。

 

「うーん。このグループいいですよ。私もついてる。」

「なにか、いいことあったのですか?」

「みなさんが、今、ここにいるってことは、私にとっても幸運なんですよ。今日、プーノから来るグループがたくさんあるはずなのに、数えるほどしかリマに来ていないんです。夕方に着いてからイカへの移動なんて、大変ですからね。私もお客様も。」

バスにお客さんを案内しながら、M田さんはしみじみと言った。そして、

「このグループのお客さんは、よくお話聞いてくださいますからね。案内しがいがありますよ。今日は何を話そうかなあ。」

と、笑顔になった。彼女がガイドであることも、僕らにとって、またラッキーだった。

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