マスター・ツートンのちょっと天使な添乗員の話

自称天使の添乗員マスター・ツートンの体験記。旅先の様々な経験、人間模様などを書いていきます。

タグ:ナスカ

「こんばんは。」

「あら、こんばんは。今からお食事ですか?」

「M田さん、明日の案内も楽しみにしてますよ。よろしくお願いします。」

挨拶を交わしながら、食事を終えたお客さんたちが、次々と席を立ち始めた。大半の方々がお帰りになり、その流れで僕も席を立つと、M田さんから声がかかった。

「ツートンさん、明日の打ち合わせをしましょう。」

同じタイミングで帰ろうとしていたお客さんたちが、「お先に。」と軽く挨拶して帰っていった。

 

僕は、M田さんの正面にかけた。

「どうしたんですか?何かお話でもあるんですか?」

打ち合わせは、チェックイン直後に終わっていた。手配に関して、重要な変更の知らせでもあるのかと、少し不安になっていた。

「いえ。ちょっと食事を一緒にしていただこうかと思って。一人でするのもなんだから()

「・・・そういうことですか。」

「そういうことです()

そうは言っても、やはり多少は仕事の話をする。ナスカから、少々離れたイカという街に2泊しながら、遊覧飛行以外の時間を、どのように有意義に使うべきか話し合った。

やがて、世間話に話が移っていく。

「最初、この仕事断ろうと思ったんです。」

突然M田さんが言った。

「どうして?」

「イカに2泊でしょ?そうすると、子供の顔を丸々一日見ない日ができてしまうの。しっかりしていると言っても、あの子、まだ10歳だし。なるべくそばにいてあげたいんです。1泊なら、その日の夜にいないだけだから。」

「ひょっとして、食事の時間をお客様に合わせなかったのは・・・」

「子供と電話で話していたんです。今日は、長い一日だったから、夕食遅かったでしょ?終わってからだと、遅くなって子供に悪いから。」

「寝ないのですか?」

「私が仕事で外泊する時は、必ず電話することになってるんですよ。娘は娘で、話したいことがたくさんあるから、眠くても待ってるんです。」

 

そんな会話の過程で、つい、僕は口に出してしまった。

「・・・よく産みましたね。」

「え?」

一瞬、「あ、言ってしまった・・・」と思った。

一部のお客様が言っていた「親不孝」。これについては、僕も多少は感じていた。今、M田さんは、お嬢さんと二人でとても幸せそうだ。結果的にそうなっているが、外国で、しかも一人で子供を産むということは、男性の僕では、想像できないほど大変だったのではないか。日本の家族が賛成しなかったなら、「産まない」という選択肢もあったと思う。そこが引っかかっていた。

「いや・・・外国で、一人でよく子供を産んだなって・・・。」

「ああ!(笑)私もそう思いますよ。今となっては。」

「今となっては?」

「今となっては。」

お腹に子供がいると分かった時は、大パニックになった。また、相手の彼氏とは、すでに別れていた。

妊娠を医師に告げられ、決断を迫られたものの、動揺だけが深まるばかり。

「どうしよう・・・どうしよう・・・どうしよう、どうしよう!そればかりでした。20代の恋愛って、まさに『恋は盲目』以外なにものでもないでしょ?付き合ってる時は、彼氏が大好きだったんです。私自身、若くてまともな恋愛をしたことがなかったから、余計にそうでした。」

彼氏と付き合っていたのは20歳の頃だ。まさに、男女ともに、「恋に恋するお年頃」だ。

「ところが、冷める時はあっという間なんですよね。あの年齢の恋って。結局、話し合って別れることになったんです。私が別れたかったのかな。つまり・・・」

彼女は、少し間を置いてから言った。

「妊娠は、私が望んでいたものではなかったんです。まだ彼を愛してた、それよりも数か月前なら、ものすごい幸せだったと思うんだけど・・・。」

しかし、医師にエコー(超音波画像)に写った小さな新しい命を見せられた時、考えが変わった。胸がいっぱいになった。当時、彼女はまだ21歳。

「その時、決心しました。絶対に産もうって。」

「・・・・・・・。」

「家族は、猛反対!特におばあちゃんはね・・・。勘当するとか言って、本当に連絡をくれなかったの。でもね、赤ちゃんがお腹の中で生きてるんですよ。私も、それを感じたら、中絶なんて絶対にできなかった・・・。それって、殺すってことじゃないですか。どんなに大変な思いをしたって産むほうがいい。殺すものかって。」

妊娠していれば、当然体調の変化もある。彼女は、自分が勤めていた手配会社の人間にいろいろ相談したが、当時、日本人で結婚していても、出産経験のある同僚がいなかった。そして、みんな、何よりも仕事が忙しかった。

 

M田さんは、藁にもすがる思いで、元カレの家に連絡を取った。彼の家には遊びに行ったことがある。家族も紹介されていて、顔見知りではあった。別れた自分が、しかも、どちらかというと別れを切り出した自分が、今更連絡を取っていいのかという葛藤はあった。

だが、人脈に乏しい異国において、それが唯一思い付いた連絡先であり、唯一頼りにできるかもしれない連絡先であり、最後の希望だった。

「どうして大学を辞めちゃったの?よく親が許してくれましたね。そんなに嫌だったんですか?」

「嫌ではなくて、結局、大学でやることに興味が持てなかったんです。悪くない大学でしたよ。」

大学名を聞いて驚いた。私大では、日本有数のレベルを誇るところだったからだ。

「え!?学部は?」

「外国語学部です。」

お客さんとのやりとりを見ていた僕は、少しイラッとした。彼女が中退した大学の外国部学部は、僕が受験生時代の第一志望だった。「自分が強く憧れながら合格できなかったのに」、という嫉妬だった。

「スペイン語学科ですか?」

「いえ・・・ロシア語学科です。」

「え?」

「(照れ笑いしながら)いえね、私、受験時代に、妙にその外国語学部にこだわってて、そこならなんでも良かったんですよね(笑)。文化的にはラテン系のほうに興味があったのに、当時のレベルで・・・まあ、偏差値なんですが、一番合格確率の高いところ受けて、それで入れちゃったんです・・・。」

こんな言い方をしているが、実際は、そんな簡単な思考で入れるところではない。

「2年間は、いろんな意味で自分を納得させようと思って必死に勉強したんですよ。ロシア語学科って講義が厳しくて、遊ぶ時間どころか、アルバイトする時間だってまったくありませんでした。それに不満はありませんでしたよ。かえって、勉強に集中できましたから。それで、納得するまで勉強して、ロシア語学科の勉強は、自分のやりたいこととは違ったって確信して、親に相談したんです。相手にされなかったけど。」

それはそうだろう。しかも、留年が多いことで有名な、その大学のロシア語学科で、授業にはついていけていたらしい。

「ちょうどそのころ、高校の先輩が、海外旅行の手配会社に勤めてて、ペルーに行ける人を探していたんです。学歴は不問でした。英語ができれば、スペイン語は、現地で学校に通いながら身につければいいと言われました。大学を卒業しなくても雇ってもらえる、しかもやってみたい仕事が目の前にあったんですよ。条件などをいろいろ聞いて、決めてしまったんです。」

「親はなんて・・・。」

「東京と九州で離れてましたからね。説得はしやすかったです。ただし、それならば帰国した時の編入先は準備しておくことが条件と言われて、別の大学に編入手続きをとって、休学という形にしたんです。全然行く気なかったけど。」

この手の編入を受けつける大学は、実際にある。編入は、4年制なら、短大卒、または四大卒の2年間分の単位を取得済みなどが条件になっているところが多いようだ。

「両親は、案外簡単に折れたけど、猛烈に反対したのは祖母でしたね・・・。私、孫の中では一番可愛がられてたんですけど・・・。そのあと、急に態度が変っちゃいました。」

彼女は、この時だけ、ちょっと悲しそうな顔をした。

「両親がこちらに来てくれた時、家族の写真を撮って、それは見てくれたみたいんなんです。私にも孫にも『会いたい』と思ってくれていたらしいんだけど、いざ、電話が来ると、頑になっちゃったんですって。おじいちゃんは、早くから許してくれてたんですけどね・・・。」

「去年、ようやく実家に帰ることができたんです。私も頑張って、やっと貯えができましてね。もう少し早ければ、おばあちゃんと、きちんとまた仲良くできると思ってたんですけどね・・・。一昨年に亡くなっちゃったんです。悲しかったなあ・・・。一度でも、娘に会わせたかった・・・。」

 

ホテルが近づいてきた。

「おかしいなあ(笑)みなさん、すみません。」

急に何か気づいたようにM田さんが言いだした。

「自分の経験に絡めて、ペルーの事情を話そうと思っていたのに、なんでこんなこと喋ってるんだろう(笑)面白いですか?」

みなさんが、興味深げに頷いた。

「まあ、いいや。ここまで話したら、これで終わるのも中途半端です。また後で、最後まで話しを聞いてください。続きは、明日のバスの中でしましょう。」

 

この日のホテルは、イカという町の郊外にあった。周辺を砂丘に囲まれており、薄暗い砂漠の中で、そのシルエットが浮かび上がっている。

アラブ世界でよく見られるキャラバン・サライ(隊商宿)をモチーフにしたホテルには、大きな中庭があった。入口は小さい。夜になると、重くて頑丈な門が閉められ、外部の人間は敷地内へ入れない。宿泊者も、夜間の外出は、一言ホテルのスタッフに声をかけないとさせてもらえないし、その後帰って来た時のセキュリティー・チェックが大変であることを告げられた。こんな田舎でも、ペルーの治安の悪さを垣間見ることができる。

田舎で、設備に不安が残るホテルではあったのだが、この日は特に問題なくチェックインを終えた。

 

「すみません。私、夕食はみなさんの集合時間とは別にいただいてもかまいませんか?このホテルのスタッフは、みんな英語を話せますから。」

「どうぞ。」

リマからナスカ近郊に遠征する際は、ガイドはグループと同じホテルに泊まる。彼らの仕事は、基本的には観光案内だから、添乗員のように夕食でお客様と同席する義務はない。もし、常に同席しているガイドさんがいたら、気を遣っているか、添乗員に頼まれているかのどちらかだ。

 

夕食時は、2つに別れたテーブルのうち、僕が同席したほうでは、M田さんの話題で持ちきりだった。

「あの人、すごいわよね。二十歳そこそこから、自分1人で子育てしてるってことでしょう?それも外国で。行動力もすごいけど・・・いったいどうやってるのかしら。」

「案内もとても面白い。通り一辺倒でなく、俺たちが知りたい社会や政治のことも話してくれる。まだまだいろいろネタを持っていそうだしね。。大学の先生が、市民講義で分かりやすく楽しい話をしているみたいだ。」

確かに、彼女の案内や考え方は、通常のガイドとは一線を画していた。

「でも、よく子供を産みましたよね。私なら・・・きっと産めない。」

30台半ばの若い女性が言った。

「私もそう思った!そこを聞きたいわね。話してくれるのかしら。でも、M田さんの体験をもとにペルーの行政の話まで聞けるから、本当に興味深い。」

「でも、あれは親不孝だよ。すごい能力とは思うけど、親不孝だ。関係が悪くなったおばあちゃんの気持ちは分かるよ。」

ツアー最年長の男性が言った。そして、

「まあ、聞いてる分には面白いけどね。」

と付け加えた。

「私も親不孝だと思う。私たちの世代なら、あんなことは許されなかった。今は、時代が違うのね。昔は、女は専業主婦になって家を守るのが一番て言われてたのよ。それなのに、ある日、『日本の女は自分だけじゃ生活できない。自立できないからダメ』なんて言うやつが出て来て・・・M田さんを見てると・・・なんか悔しいわ・・・。単なる妬みだけど悔しい。」

奥様が、多少感情を昂らせたような話しぶりで言った。その発言で、会話が止まったテーブルで、しばし間をおいて続けた。

「本当に妬みというか、ひがみよね。それができる環境でも、私にはできなかったと思う。でも・・・」

「分かる、分かります。」

同年代の女性が相槌を打った。

「私たちには選択肢がなかったから。もし、いろいろ選べたら、どうなってたかなとは思います。・・・私もあなたと同じよ。親の立場から見たら、彼女は親不孝に思えちゃう。」

奥様は、すこし留飲が下がったような表情をして、同意してくれた彼女に言った。

「でも、面白いわよねえ・・・彼女の体験談。」

世代や性別によって、M田さんの話の捉え方も評価も違ったが、間違いなくその内容は、みなさんを惹きつけていた。彼女の話は、このツアーにおいて、マチュピチュ、ナスカの地上絵と並んで、旅を満足させる大切な要素のひとつにまでなっていた。

 

僕らの夕食が終わる頃、彼女がレストランに入ってきた。

 

つづく

休憩が終わって、バスは再び走り始めた。

これまで多くの車線があった高速道路は単線になる。100km/hで飛ばしていたバスは80km/h程度のスピードになる。このあたりに来ると、「元不法住居群」ではなく、きちんとした村や町が見えてきて、ほっとする。

地平線を染めていた夕焼けもなくなり、暗くなった。休憩後、バスに乗っておしゃべりしていたお客さんたちは、ふたたび静かに眠りについた。M田さんも眠っていたが、すぐに目を醒ました。

(眠そうな顔で)「・・・寝ないんですか?ツートンさん。」

「ええ・・・。なんかバスで眠るのは、ドライバーに悪くて。」

「ふーん・・・。まじめなんですね。」

まじめというよりも、「バスの中で寝るな」という旅行会社で育てられたからそうなった。スケジュールの都合で、寝ないと体が持たないというような時は、ひとこと断って寝る。ただ、理由もなしに寝てしまうのは、パートナーのドライバーに失礼だ。実際、僕の主戦場である欧州では、よく眠る添乗員の悪口をドライバーから聞くし、「君は絶対に眠らないから好感が持てる」と褒められたこともある。仕事中に居眠りしないだけで好感を持たれる。添乗員の仕事には、そんな不思議なことが、たまにある。

 

「・・・そうですか。私も起きてようかな。いつもは起きてるんですよ。やっぱりドライバーに悪いしね。でも、寝ちゃう添乗員さんてけっこういますよ。ひどい添乗員なんて、私がご案内してるのに寝ちゃうの(笑)」

僕らは、しばし談笑した。お客さんが眠っている間の他愛もない会話。けっこう、これが息抜きになって楽しい時もある。

しばらく会話をした後、少し、間ができた。車は、再び真っ暗になった砂漠の中を走っていた。僕は、「子供はペルーで育てる」という彼女の決心が気になって仕方なかった。

「ねえ・・・。答えたくなかったらいいんだけど・・・。聞いてもいいですか?」

「はい。なんですか?」

「子供をペルーで育てようと思ったのって・・・なんで?」

「ああ!(笑)」

『そんな話したわね・・・』と、いう表情を彼女はした。

「それ!私も気になっていたの!」

後方の席から、奥様がヌッと乗り出してきた。暗い車内だったので、僕もM田さんもビクッとした。

「悪いけど、さっき全部聞こえてたの。ものすごい興味ある!」

緊張感がそがれたついでに、話の内容もそれていき、彼女を交えた談笑となった。

高度障害から解放された奥様はよく喋った。体調を崩して話せなかった分をまとめて話しているようだった。これが本来の彼女の姿だったのだ。表現のひとつとして、失礼な言い方をするのを許して欲しい。もう少し高度障害でいてくれてもよかったのに。

 

僕らの会話で、まわりのお客様たちも目を覚ました。話の流れで、M田さんは、ご自身のペルーに来るまでのことや、実際の生活、マイクを使って話してくれることになった。

「恥ずかしいことではないし、私自身の経験に基づいたほうが、みなさんも聞きやすいと思いますから。」

と、彼女は、休憩前に僕にしてくれた話を、最初から言い直して、ようやく子育てをペルーでする理由を話し始めた。

「いろいろあるんですけどね・・・。ひとつは私の収入の問題です。私、大学3年になる時に、こっちに来たんです。日本に帰ったら高卒です。それでもいいのですが、なんの資格も持っていません。しかも、実家が九州の田舎でして、おそらく、子供を十分に養えるだけの給料をもらえる仕事にはつけないと思いました。そうなると、完全に親に依存することになってしまう・・・。東京の就職事情もいろいろ調べてみたのですが、当時は難しいと思いました。」

「今の仕事はガイドだけですか?」

「ガイドの仕事と他に翻訳の仕事もいただいてます。ガイドだけだと、シーズンによって、かなり収入に差が出てしまいますから。翻訳は、日本語からスペイン語の、もちろん逆もありますよ。こちらの一般的な収入を考えれば、悪くないですよ。」

仕事を掛け持ちしているガイドさんはよく見るが、彼女のように優秀なタイプでは珍しい。

「今の収入と、こちらの生活費と教育費。日本で得られそうな収入と、それに見合う生活や教育を比較した時、帰国するよりも、こちらにいたほうが、高いレベルの教育を受けさせてあげることができるんです。皆さんから見たら、ペルーは発展途上国で何もかも遅れているように見えるかもしれませんが、そんなこともありません。きちんとした教育システムはあるんです。」

「ふーん・・・。そういう考え方もあるのか・・・。」

ふだん、子供は、家では日本語を話しているそうだ。学校は、学費の高い日本人学校へ行かせている。そういえば、写真に一緒に写っていたクラスメイトは、全員日本人だった。

近所の子たちやその親と話す時、お手伝いさんと二人で過ごす時はスペイン語で話す。M田さんが家で食事をする時は、お手伝いさんと三人だが、その時の会話もスペイン語だそうだ。

 

「どちらの言葉も厳しく教えてます。スペイン語は、ふだんの生活で自然と身に着きます。その中で汚い言葉や表現は使わないように注意します。日本語は、私との会話と学校生活だけですから、さらに厳しく教えます。特に「てにをは」と「ある」と「いる」の使い間違いには煩く言いますよ。」

ペルーで生まれた娘さんは、その時点で、ペルー国籍でも日本国籍でも、どちらも選べた。やがて、どちらか選ばなければいけない時が来るが、時間はたっぷりある。その間に、本当に「選べるだけの能力」を身につけさせたいということだ。

「外国に住んでたわりに日本語がうまいというのはだめです。『え?日本にずっと住んでいたんじゃないの?』ってくらいの日本語を話せないと。」

 

今まで、外国で母親になった現地ガイドにはたくさん会ってきたが、ここまで、いろいろ考えて、しかも徹底しているのは、M田さんが初めてだったと思う。たとえば、これまでのペルーのガイドは、みんな「学費の高い日本人学校よりも地元の学校」に通わせていた。

「それは、みんな旦那さんがいるからですよ。うちは母子家庭だし、もう私は結婚する気ないし。子供の教育が終わったら、私の中にも『帰国』という選択肢が出てくるかもしれません。こちらに『永住する』と心に決めたほかのガイドとは、ちょっと考え方が違うと思います。」

 

ペルー人の感覚を持ちながら、教育に関しては、日本のお母さんのような感覚をしっかりとお持ちだった。

 

つづく

昼食は、リマ市内で。この日は豪華な地鶏の丸焼きと、セビーチェという魚のマリネ。やはり、都会の料理はうまい。セビーチェの魚の鮮度は素晴らしく、鳥は外はパリパリで、中はみずみずしく焼けていた。鳥の丸焼きは、見た目はボリュームたっぷりであったが、味がよかったので、多くの方が完食した。ペルーは、どこに行っても鳥の丸焼きの写真を使ったレストランの看板を見かける。国民食なのだろうか?ペルーのガイドブックや紀行文では見かけないから、僕の思い込みかな。でも、うまい。

2014年に最後にペルーに行ったときは、その鳥の丸焼きが半身になっていて寂しかった。「丸ごとだと食べきれない方が多いので」という担当者の話だったが、経費削減ではないかと勘繰った。今のツアーはどうなんだろう。切り身などになっていないことを祈る。

 

そして、いよいよナスカ観光の拠点、イカに向かった。

真っ平らで真っ直ぐな道。リマをはじめとしたコスタの道路事情は優れている。しばらくの間は、8車線ほどある高速道路が続く。やがて、町並みは途切れると、右側には海が見えてくる。陸地は完全な砂漠だ。僕らからすると、不思議な風景だ。日本や欧州であれば、海があり、砂浜があり、砂浜の奥には木々や、場所によっては豊富な緑があるが、ペルーのコスタにはそれがない。ビーチからずっと砂浜が続いているような感じだ。砂漠と海が隣り合っている。ドバイやドーハなどの中東の景色にだぶる。

「海があっても、雨がほとんど降りませんからね。」

ペルーの海には寒流が流れ込む。そのため常に気温よりも水温が低く、水蒸気が出ないため、雨の原因になる雨雲が出ない。この時期によく出る霧は、寒流によって冷やされた海上の湿った空気が、霧になったもので、雨雲とは別物だ。

 

やがて、海が遠くなり、完全に砂漠の中のドライブとなった。すると、今度は、正規の住宅とは思えないような家並みが見えてきた。見た目は不法住居だが、元不法住居で現在は合法だそうだ。ここには、面白いペルーの国としての政策を、垣間見ることができる。M田さんが説明する。

「移民、あるいは貧しくて自分の家を持てない人や、アパートも借りられない人が、材料だけ買って何もないここに、このように家を建てました。10年前(2009年当時から見て)は、ほんのちょっとしか建っていなかったんですけど、今は村くらいの規模にはなってますね。」

「はい。これらの住宅は、すべて違法です。いや、正確には違法でした。ペルーは、日本の3.4倍の面積があります。そのかわり、人口は4000万ほどなんです。つまり、土地が余っているんですね。国が、国力を向上させるための政策のひとつとして、人口増加があります。そのために移民を積極的に受け入れています。不法滞在者を増やすわけにはいきませんからね。」

ふむふむ・・・。

「そして、2008年に画期的な決定をしたんです。不法住居であっても、2004年より以前にそこに住んでいた場合、その土地と建物は、本人のものとして認める。国から無償で与えられるというものでした。」

これにはみんな、「え―――!?」とビックリ仰天した。なんて国なのだろう。ただ、この決定には疑問が残る。住人は、それぞれ、どうやって2004年より以前から住んでいたことを証明するのだろう。違法で不法住居なのだ。不動産の契約書もなにもないはずだ。

「それが、また日本と違うところです。こちらでは、違法で建ててしまった住居でも、役所に行って、書類を書いて提出すれば、『住居証明』といったものを発行してもらえるんです。それが証拠になります。」

「住民票みたいなもの?」

「近いですけど、ちょっと違いますね。住んでいるだけの証明であって、『住民、市民』として認めてもらっている書類ではないのです。」

しかし、それを元に、2004年以前からそこに住んでいた人々は、自分たちの家と土地をまんまと手に入れてしまったわけであるから恐ろしいことだ。

「そのかわり、ご覧のとおり、電気も水道もありません。水は、近くの井戸にまで汲みにいかなければいけません。トイレは、自分でセメントを固めてつくってますね。はい、見せてもらったことがあるんです。信じられないかもしれないけど、日本人の知り合いで住んでる人がいるんですよ()。一応、水洗です。水は、自分で流さなければいけませんが。もちろん、詰まったら自分でセメントを壊して直す。そしてまた作り直しです。いかがですか?(笑)」

これには、一瞬お客さんたちは表情を曇らせた。

「どうしました?」

その様子に何かを感じたM田さんが僕に聞いてきた。僕は、マチュピチュでの停電について説明した。

「あっははは!そういうことですか(笑)妙に実感できてしまうわけですね。」

「でも、土地をもらえたということは、国もこのあたりを放っておかなくなります。道路は、すでにこうやってあるわけですし、電気や水道も通りますよ。いつかはね(笑)。この国のことだから、いつになるか分かりませんけど。」

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日が傾いてきた。お客さんは、皆バスの中で眠っていた。慣れない高地での旅や、その中でのトラブル、あるいは、ただただ存分に楽しんで、それぞれに疲れていた。

起きているのは、僕とM田さんだけになった。

「M田さん、ペルーに来て何年くらいですか?」

「もう12年になります。」

え!?僕は、5、6年くらいだと予想していた。だって彼女の外見からして、年齢は30そこそこだ。ペルーに来て12年ということは、20歳そこそこでこちらに来たことになる。

「私、32歳です。子供は娘が一人いますよ。」

「あ・・・いや・・・そこまで聞こうとは、別に・・・。」

と、言いながら、僕は頭の中で計算していた。彼女は、ちょうど20歳の時にペルーにやってきたのだ。

「いいんです。顔に『知りたい』って書いてありましたし(笑)。それに全然恥ずかしいことじゃないもん。」

そう言って、彼女は携帯に入っている娘さんの写真を僕に見せた。かわいらしい。ペルー人とのハーフだ。

「かわいいですね。ハーフだけど、こちらの顔立ちですね。」

「父親は、白人とインディオのハーフなんです。こちらの顔立ちに見えるでしょ?でもね、ペルーの子たちに混ざると、日本人の顔立ちに見えるんですよ。不思議ですね、ハーフって。」

「ふーん・・・。じゃ、このツアー中は、お父さんが面倒見てるんですね。」

「いえ、私、この子の父親とは、同棲していたけど、籍は入れてなかったんです。ペルーでも、そういうのが流行っていて。この子がお腹にいるうちに、彼とは別れました。」

「・・・・・・。」

「住み込みのお手伝いさんを雇ってるんです。日本では、お金持ちの人だけが、そういうのを雇っているみたいに思われますけど、こちらでは、わりとリーズナブルで、普通に雇ってる人は多いんですよ。」

「大変じゃありませんか。日本に帰って、実家で育てようとは思わなかったんですか?」

「思いませんでした。」

彼女は、凛とした表情でキッパリと言った。窓から夕日が差して、彼女の髪が赤く染まって輝いていた。

「子供はペルーで育てます。」

バスのドライバーが、彼女に話しかけた。村田さんは、2、3回頷き、「OK」と返事をした。

「ここで休憩にしましょう。トイレの数は多いし、アイスクリームもコーヒーも紅茶もみんなあります。『ドリップコーヒーを飲めるのは、ここが最後です。この後は、ネスカフェしかありません』って、みなさんに教えてあげたほうがいいって、ドライバーさんが言ってます!()

凛とした表情は、ふだんお客さんに向ける優しい表情に変わっていた。

 

「子供はペルーで育てる。」彼女にそう選択させたものは、なんだったのだろう。

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