「Oh!」
薬局の女性店員は、僕の歯の様子を見ると、両手で口を覆いながら世紀の大悲劇に遭遇したかのような表情を見せた。確かに、僕の状態はそれに近いものではあったかもしれないが、それにしても大袈裟なリアクションだった。
「どうにかできませんか?」
切なく訴える僕に対して、しばし考えた後、彼女は口を覆う両手をゆっくりおろしながら言った。
「こちらではどうにもできないわ。」
そんな・・・。ツアーの残りはまだ六日間もあった。ロワールの素敵なお城を歯なしで巡れというのか。聖地モンサンミッシェルを歯なしで案内しろいうのか。パリのシャンゼリーゼ通りを歯なしで歩けというのか・・・。どれを考えても、一生十字架を背負わざるを得ないような悲劇的なシーンばかりだ。だいたい、歯がない添乗員と一緒に歩くなんて、お客さんたちだって嫌に違いない。
「昨日、ネットで調べたら、歯の接着剤のようなものがあるようだけど、こちらにはないのですか?」
「ないわ。確かに歯の接着剤はあるけれど、一般の薬局では扱うことはありません。歯医者に行かないと・・・。」
「・・・・」
茫然としている僕を、しばらく申し訳なさそうに見つめていた店員は、その場を立ち去ろうとした。
「・・・あの、すいません!」
とはいえ、諦められるはずもない。前歯がないままパリの街を行き来する自分を想像したら死にたくなった。絶対に引き下がれるはずがなかった。それはもう必死だった。
「あと六日間だけの対策でいいんです。日本に帰ったら歯医者に行きますから。この間だけ、一時的になんとかできればいんです。お願いします。」
店員は、少し困ったような顔をした後、「少々お待ちください」と言いながら店の奥に入った。そして一分もしないうちに戻ってきた。
「今、ご用意できるのはこれだけです。」
「これは?」
「一本の歯を固定するのは難しいと思います。ちょっと固いものを噛んだら取れてしまうでしょう。その時、欠けた歯を飲み込んでしまうかもしれない。リスクを考えたら、おすすめできません。」
「いいんです。とりあえず、前歯がない状態をなんとかできれば!」
店員は、従業員用の洗面所まで貸してくれた。
「今すぐお使いになるのでしょう?口の中をきれいにしないとだめですよ。歯ブラシして、口もちゃんとゆすいでね。つけてすぐは取れやすいから、しばらく舌で触らないように気を付けてください。」
優しい。急にお母さんモードだ。
果たして、歯はくっついた。大きく息をついても、「ばびぶべぼ」を激しく発音しても、歯が飛んでいくことはなかった。ああ、前歯があるだけで世界はこんなに違って見えるものなのか!
バスに戻って、お客さんたちの前で精いっぱい大きく口を「い」の形にして、くっついた前歯を見せると拍手が起こった。ひょっとしたら、このツアー中で一番大きい拍手だったかもしれない。
ただし、しょせんは入れ歯の固定剤だ。食事中はすぐに取れてしまうので、外しておくことになった。それ以外でも安定しているのは、せいぜい5時間くらいで、わりと細かいケアが必要だった。
「ツートンさん、歯、大丈夫?」
と、お客さんに励まされながら、なんとか残り6日を乗り越えた。
ちなみに簡単に取れないように丁寧な治療を今も続行中で、今、入っているのは不安定な仮の歯だ。もし、みなさんがどこかのツアーに参加されて、いきなり前歯が飛んだりなくなったりする添乗員がいたら、たぶん僕だ。
その時、お願いだから「ツートンさん?」とか聞かないで欲しい。本気で聞かないで欲しい。一生のお願いだから聞かないで欲しい。
おわり
前歯が入った後のサンテミリオンの街とぶどう畑はさらに美しく見えた。これもは一本の余裕だね。
にほんブログ村
↑ ↑ ↑ ↑
ブログランキングに参加しています。上位に行くと励みになるので、よかったら上のバナーをクリックしてください。