リスボン市内の闘牛場。地下はショッピングモールになっている。
とあるポルトガルツアーにて、リスボンに着く前に、現地手配会社から連絡があった。
「リスボンの市内観光で、ガイドの見習いを同行させてもよろしいでしょうか?東京のツアー担当者には許可を得ています。添乗員さんがよければ問題ないとのことです。」
時々この手の依頼はあるのだが、人材育成が理由だし、僕は必ず受けることにしている。
当日現れたのは、中年の優しそうな女性だった。だが、どこか日本語がおかしい気がする。こちらの言葉を完璧に聞き取れるし、流暢に話せるのだが、時々単語の選択というか言い回しというか、何かが違うような気がした。
聞けば、ブラジル生まれの日系3世とのことだった。日本語は、両親から教わったらしい。
南米で日本語を話せる日系人は二種類に分けられる。両親から習ってネイティブ並みに使いこなせる人と、元々は話せずに、完全な外国語として学んで話せるようになった人だ。僕が出会った人の中では、ブラジルやアルゼンチンには前者が多く、それ以外の国々では後者が多い。
「私は、二年間、日本に住んでいたことがあります。でも、最初はたくさん分からない単語がありました。ブラジルで日系人が話しているのは、昔の日本語。明治時代の言葉です。」
国外に出ると、新しい言葉が入ってこないため、母国語の変化についていけなくなるというが、その例だろう。
「でも、昔に比べたら学びやすくなりましたよ。」
と言った、メインの初老男性ガイドに僕は尋ねた。
「日本人から見てもそう思いますか?」
するとメインガイドは笑いながら言った。
「いえ、実は私も日系ブラジル人です。」
「え?うそ!」
思わず声をあげてしまった。男性ガイドの日本語は、間違いなく完璧な現代日本語だったから驚いた。
僕の反応を目の当たりにした男性ガイドは、どこか得意気だ。
「彼女とは、生きた現代日本語と接している時間が違いますから。私は26年ガイドをしています。その間、ずっと日本人観光客の相手をしながら、いろいろな日本語を聞いて、衛星放送も毎日見て、最近はユーチューブも見てね。」
「日本語を学びやすくなった」大きな理由のひとつに、メディアの発達を挙げようとしていたようだ。
「よくポルトガル語を上手だと褒められるんですが、私が上手いのは日本語なんですよ。」
これを言いたかったのかな。言い得て妙だ。女性見習いが続く。
「私が日本に住んだのは二年だけ。ポルトガルには二十年住んでいるけど、同じ人としか日本語を話していませんから。まだまだこれからです。」
なお、二人とも日本語の読み書きは堪能だ。やはり、それができないと、言葉の劇的な上達は難しい。
「なるほど。そういうことですか。ところでどうしてポルトガルに来ようと思ったのですか?」
「初めてヨーロッパ旅行に来た時に、気候がいいなと思って。本当はスペインがよかったんだけど、まずは、言葉に困らないポルトガルで暮らそうと思って。いつかスペインに住みたいです。大好き。」
「ふーん・・・もし、ヨーロッパを出るとしたら、また日本に住みますか?それともブラジルに帰りますか?」
「・・・・・ブラジルです。」
「え?」
受けたショックが顔に出ていたのだろうか。彼女はすぐに「ごめんなさい」と付け加えた。
「どうして日本はだめなのですか?」
「住んでいて一番便利だと思うのは日本です。公共交通機関とか行政のサービスとか。でも、気候が・・・。夏は暑くて湿気があって死にそうになっちゃう。冬は、すごく寒いし。ブラジルやポルトガルには、こんなに夏と冬の温度差はありません。私には、気候が一番大事です。」
なるほど。それは一理ある。特に真夏は、僕もなるべく添乗に出ていたいと思うし。
旅行先としてはともかく、居住先となると、日本の気候の過ごしにくさを指摘する人は意外といる。特に真夏の高温と湿度は評判悪い。
「ガイドさんもそう思いますか?」
と、メインガイドに振ってみると、
「いや、私は一度も日本に行ったことがないんです。完全に未知の外国です。」
それもまた驚きだった。「未知の外国」という日本語を使いこなせる人が、日本渡航経験なしだとは。
あー、でも日本に来たことがない日系ブラジル人ガイドってけっこういたなあと思い出しながら、お客さんが全員揃ったバスに乗り込んだ。
ロカ岬。ユーラシア大陸の西の果て
シントラのペナ宮殿内部
リスボン市内にあるサンタジェスタのエレベーター。
ロシオ広場とコルメシオ広場を結ぶ目抜通り。カフェやレストランが並ぶ。
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