マスター・ツートンのちょっと天使な添乗員の話

自称天使の添乗員マスター・ツートンの体験記。旅先の様々な経験、人間模様などを書いていきます。

タグ:盗難

今回は、めずらしくあとがきをつけます。

海外のパッケージツアーで、盗難事件はよく起きます。お客さんの盗難事件を経験せずに業界を去っていく添乗員は、まずいないでしょう。その中にあって、今回は、車上荒らしによって参加者全体が被害に遭われたという、非常に稀なケースでした。(車上荒らし自体は時々聞くのですが、日中、それもグループ全員が被害者という話は、聞いたことがありません)

 

この事件の流れの中であったことを、読み手に伝えるにはどうするか、書きながら必死に考えました。事件を把握した瞬間の自分自身の心理、お客さんの動揺と、一息ついてからのそれぞれの反応、警察の対応、ガイドさんの頑張りなど、すべて丁寧に書かないと伝わらないと思い、たった一週間のツアーの話が、けっこうな長編になってしまいました。

 

上司さんから、帰国後対応時のお客様の落ち着いた様子を伺った時は、少々信じられなかったのですが、現地滞在中に、日本サイドと密に連絡を取って、正面から対応して、どんなことを言われても逃げなかったのが功を奏したのだと、今シリーズを自分で読み返して強く感じました。現場での丁寧な対応の重要性もあらためて大切だと思いました。

 

登場人物紹介を一切しませんでしたが、まだ、トラブルが起きてから、年数が経っていないため、なるべく登場人物が特定できないようにするためです。会話の内容も、時には、参加している中の誰が言っているのかわかりにくい部分もあったと思いますが、それもまた意図的です。逆に言うと、人物を特定できなくても、話を追えるように工夫したつもりです。

 

ふだん、ツアー参加者が目にしない約款などについても踏み込んで書きましたが、今後の旅行の参考にしていただきたいと思います。

なお、同じようなトラブルが起きたからと言って、どの旅行会社も同じ対応をするとは限りません。特に、専用車代を旅行会社が払うことは、通常ならまずないことです。特別保険対応も、絶対とは言えないと思います。

個人的には、どの旅行会社もこれくらい親切であればな・・・と願っていますけどね。

 

一言付け加えるならば、トラブルがあった時、このブログを旅行会社の社員に見せて「対応を見習え」などと言わないようにお願いします。そんなことをされると、僕の命が狙われます。

 

それではみなさん、メリークリスマス!

 

次に書くことは、もう決まっております。また明日!

11月中旬に帰国してからも忙しかった。この年は、冬のオフシーズンなどなく、あっと言う間に年を越して、気が付いたら3月になっていた。

「史上最悪な盗難事件」の顛末は、時々気になってはいた。対応は順調に行われたくらいの噂は聞いていたが、詳しいことは耳に入ってこなかった。当時、この取引先から僕がいただいていたツアーは、イギリス、ドイツ、北欧、そして旧ユーゴエリアが多く、南欧は珍しかったから、役員とのミーティング後は、彼らと話す機会もなかった。

 

3月中旬のすっかり春めいたある日、ツアーの打ち合わせで取引先に伺った時のことだ。廊下で上司さんと、たまたま鉢合わせた。僕にとっては、事の顛末を確かめる絶好の機会になった。

「問題なく進みましたよ。」

さらっと、「もう昔のこと」とでもいうかのように上司さんはこたえた。

「そうですか。どれくらい期間がかかりましたか?」

「一番最後に対応したのは4日前かな・・・」

「え!?」

一瞬耳を疑った。11月の案件を3月まで対応していたなんて。それほどごねたお客さんがいたということなのか。いったい、どこが問題なく進んだのだろう。心配になった。

「いえいえ。ずっとつきっきりで対応していたわけではありませんよ。」

上司さんは、笑顔で慌てて付け加えた。

「最初の保険で、思ったような金額がおりなかった場合、別の保険でさらに申請できるって案内をしたと、ツートンさんは仰ってたじゃありませんか。」

「はい。確かにしました。保険がおりるかどうかはともかく、申請はできると。」

「それですよ。我々の特別保険、お客さんご自身の保険で、金額が少ないという方が、最初の対応の後、ちらほらその件で問い合わせてきたのです。」

「なるほど。」

「お客さんも『分からなかったら、やり方を会社に問い合わせればいいって、ツートンさんに聞いた。アドバイスだけしてくれ』って。その最後の問い合わせが、4日前だったって話です。」

納得した。それにしても、大きなトラブルともなると保険の審査に時間がかかるものなんだと思ったのを記憶している。

「大変だったのは、最初の2日間です。特別保険のために、全参加者に電話したのですが、4人で手分けしても、全てを聞き出すのに丸二日かかりました。事務的な話だけでなく、お客様の愚痴もきかないといけないし()。あ、ガイドさんやツートンさんの悪口はなかったですよ。うちの対応に対しても、特に文句は出ませんでした。ただの愚痴です。それで、やっと聞き終わったと思ったら、また同じお客さんから電話がかかってきて、『これも盗られたんだった!』って追加があったりね。」

「本当、大変でしたね。」

担当班の苦労を考えると、少し気の毒にになった。

「いや。でも、その二日間だけでしたよ。本当に大変だったのは。」

「パスポートを紛失された方は?」

「専用車代を支払う件と、そこまでに至った経緯をお話したら、すんなり納得してくれました。」

「ほんとに!?」

「ええ。フランスにいる間にその対応をして欲しかったとは言われましたが、それだけです。」

対応は、本当に順調だったのだ。僕は、ほっとしたが、それがはっきりと顔に出ていたようだ。

「そうそう。もう大丈夫です。呪縛から逃れてください。最後の会議の時、必要ならお客様にご自宅に挨拶に伺うって話になってたでしょ?何件行ったと思います?」

「・・・さあ・・・何件ですか?」

「それが、一件も行かなかったんです。」

「え?」

「みなさん、電話で納得してくださったんですよ。怒ってるわけでもなくて。これには驚きました。ここまで大きなトラブルなら、普通は何件か呼び出されるんですけどね。それと・・・」

「それと?」

「ちょっとお付き合いください。」

上司さんは、自分のデスクのPC画面で、このツアーの顧客リストを見せてくれた。参加者20人のうち10人は次のツアーに申し込まれていた。2人は問い合わせていた。

「あとの8人は、現役世代です。働いていたら、この短いスパンで旅行はできませんよ。でも、うちからのDMを拒否するなどのお声はいただいてなんです。つまり、このトラブルで、うちを離れていったお客様は1人もいらっしゃらないんです。我々の頑張りは報われたんです。」

 

「よかった・・・。」

それを聞いて、僕は心底胸をなでおろした。


その後、上司さんにも、このあと挨拶した役員にも「現地での対応がよかったから、会社内での対応が適切にできた」とお褒めの言葉をいただいた。

自分のとった行動が、最良のものだったのかどうかは、正直自信はない。だが、上司さん達のお褒めの言葉が本音であったなら、僕はとてもいい経験をした。


僕は、トラブル中の会社の対応には、とても感謝している。ストーリーの中ではそれほど描かなかったが、僕の判断に対して万全なフォローをしてくれたからだ。

現実社会において、「自分はやったのにあっちは大した仕事はしなかった」とお互いのことを評価しないケースは多い。ドラマの中のように、お互いが称え合う現場というものは少ない。今回の「史上最悪な盗難事件」の現場において、僕は数少ない例を体験できたことになる。


トラブル発生時のことを思い出すと、今でもおぞましい。それは、僕の中で心の傷となっている。

一方で、担当班の人たちと、ここで築いた信頼関係は、心の中の勲章になり、今でも生きている。


こうして、稀に見る大きなトラブルは、僕の中でようやく終わったのだった。

翌日、僕は報告に向かった。まずは、担当者への通常報告。それから添乗部署のトップ、役員二人、担当者とその上司、そして僕の合計6人でミーティングを兼ねたトラブル対応ミーティングが行われた。既にある程度の報告を受けていた役員二人は、僕に対して、丁寧な労いの言葉をかけてくれた後、事務的な質問を重ねた。

「担当者には報告済みであることは承知で、また同じことを答えていただくことになると思います。こちらも、まずは確認することが仕事でしてね。よろしくお願いします。」

「イライラしないでね」ということだと思う。まったく圧迫感はなかった。

「まず、ドライバーは、バスにちゃんと鍵をかけていたのだよね?送ってもらった鍵の写真を見ると、ピッキングかな。」

「警察の捜査を受けていないのでわかりません。無理矢理開けられたことは確かです。写真だとわずかな傷ですが、実際目にすると、かなり強引に開けた様子がうかがえました。」

「ドライバーは、変更しなかったそうだけど、バスも変わらなかったのかな?」

「はい。そのまま利用しました。」

「鍵がこわれたままで?」

「フランス国内事情があのような状態ですから。事件が週末だったこともあり、別のドライバーを探せなかったようです。バスの機能そのものには問題はありませんでした。ただし、ランチの時もディナーの時もドライバーの食事は、弁当にしてもらって車内で食べてもらいました。これはドライバー本人の判断でもあります。バスを離れるのは、夜の勤務終了から翌朝の仕事が始まるまでの間だけ。その間は、貴重品かどうかは関係なく、一切車内に物をおかないように案内しました。」

「うむ。お客さんは、それに納得していた?」

「はい。」

「よし。続いてツートンさんについてだけど・・・。バスを降りる時、貴重品をお持ちになるようには言わなかったの。」

「はい、この時は言わなかったです。『食事だけだから、不要なものは置いていってください』くらいですね。」

「ちょっと待ってください!たった1回、この時だけ言わなかったからって、盗難が添乗員の責任になるってことはないでしょう!」

担当者が、強い口調で会話に入ってきた。僕を助けようとしてくれているのだ。

「念のための確認だよ。」

役員が冷静にかわして質問を続けた。

「貴重品の扱いに関して、基本的な案内はしていたんだよね?」

「もちろんです。」

僕は、ツアーが始まる受付時に、常に初日の動きを説明する文書を、お客様に必ずお渡しするようにしている。その中に、貴重品に関する案内も入れている。そのうえで、最初の空港に着いてホテルへ移動する間に、その文書に沿いながら再度、貴重品の扱いについてはお願いする。

「これが、お客様にお渡しした文書です。」

説明を終えて、僕は実物をお見せした。この手の質問は、必ずされると思っていたから、手元に用意していたのだ。

「うん。自分があの時に貴重品について言っていればという、うしろめたさはない?」

「ないですね。」

「全然ない?」

「『言っていれば、多少被害は少なかったかもしれない』という可能性は感じます。でも、うしろめたさは感じません。」

「うん。」

「たった1回、そこで言わなかったからといって、貴重品をバスに置いていっていいということはありませんし、被害の件数から言っても、その一言で、すべての方々が貴重品をお持ちになったとは思えません。そこまで求められるのであれば・・・最終的には、お客様の動作すべてを案内するところまでいってしまうのではないでしょうか。」

「わかった、わかった。」

役員は、満足そうにうなずいた。

「今後、多少揉めるようなことがあったとしても、最後までそれを言えればいいよ。ドライバー、添乗員に責任はないという前提で話を進めていくうえで、大切なことなので確認した。後々、『やっぱり僕が悪かった』なんて言わないように頼むよ。」

「はい。」

 

ツアーにはアンケートがあるが、参加者は冷静に記入されていた。添乗員の対応を特別に悪く書いてあるものはなく(物足りないというのはあった)、ホテルや食事もきちんと評価されていた。その中で旅の満足度だけが低いと評価されていたものが5枚あったが、いずれも被害が大きい方々のもので、

「こんな被害に遭われたのだから仕方ない」

と、その場にいるものは、みんな納得した。

 

「よし。特別対応すべきものは、アンケートには書かれていないね。」

役員二人が頷く。

「とりあえず、ツートンさんの報告と、お客さんが書いてくれた被害申請に基づいて、特別保険の手続きを進めていくか。まずは、参加者全員に電話だね。」

「すみません。ちょっと提案がありまして。」

上司さんが声をあげた。

「パスポートを盗られた方なのですが、ニースとマルセイユの間を往復専用車で移動しています。」

「うん。それで?」

「今回に限って、こちらで払って差し上げたいのです。」

その場にいた全員が目を丸くした。

「なぜだね?」

「おかしいですよ!パスポートの紛失ですよ。完全に本人の不注意でしょう。」

役員は驚き、担当者は、直属の上司に向かって噛みつくように発言した。

「確かに不注意です。しかし、どこかに置き忘れたというわけでもなく、うちが手配している専用バスの中ということで、通常の盗難とは異なります。それに、ツートンさんの報告だと、この方々は、最初列車でニースに向かおうとされています。デモが理由で専用車を手配することになったわけですが、それをおすすめしたのはツートンさんです。まあ、うちの会社ということになりますが。つまり、デモという障害がなければ、交通費は遥かに低く抑えられていたのです。」

「なるほど。ツートンさん、二人は、どんな方々ですしたか?」

「お一人は、ただただ協力的でした。もう一人は、旅行会社が、ある程度の補償をすべきだと主張されてましたが、その話題は、僕の前でだけです。他の方を巻き込むような言動はなかったし、やはり協力的でした。もし、このトラブルさえなかったら・・・かなり善良なお客様だったはずです。それまでは、好奇心旺盛で、旅を楽しもうとする意志がよく見えましたし。」

「それは、上司くんに同意して、払ってあげたいって意味ですか?」

「いや、それとこれとは別に、僕が感じた人間性です。」

上司さんは、僕のほうをちらっと見て、

「専用車なのですが、デモによる渋滞のために超過料金が発生しています。そのぶんは、ツートンさんはお客様から徴収していないのです。私の権限でもハンコを押せる金額なので、そこは了承しました。」

「あ、そう。ツートンさん、なんでお金をいただかなかったの?」

「すでに、一度集金してから出発していましたし・・・一言でいえば同情です。」

「同情?」

「ええ。旅慣れた方々が、たまたま油断したところで、たまたま失敗したとしか思えなかったのです。このパスポートの一件を除けば、非常識な面は見当たらず、お二人とも素晴らしい顧客だと思います。正直、担当者から許可をいただく前に決めてしまったのは申し訳なかったですが・・・。」

「わかった。」

その後、過去の参加履歴を確かめて、今回に限って専用車代が支払われることになった。極めて異例のことだ。

「あくまでお見舞いね。これは補償ではないから。支払うまでの経緯は、きちんと説明すること。恩着せがましくならないように『特別』であることをきちんとお伝えしましょう。」

おそらく、「今後もご参加ください」という意味も含まれていた。特別保険とお客様ご自身の保険を利用して、大半のお客様が実損を減らせる中、専用車代はその対象になる可能性が低い。それを考慮した部分もあると思われる。

ちなみに、お客様には特別保険の対象となる可能性が低いものでも、すべて被害は申請していただいた。なにが対象になるかは、誰にも確信がないからだ。

 

「よし!じゃあ、早速作業に入りましょう。まずは、手分けして電話ですね。もし、お客様がそれを望むなら、ご自宅への訪問も視野に入れてください。トラブルの大きさを考えたら、十分に考えられます。」

やはり、自宅への訪問がありえるのか。

「ツートンさんは、これでおしまい。だいたいこちらから聞きたいことは聞けたし、予想外のことや、不明な点が発生したら連絡します。これからも、うちのツアーをよろしくお願いします。」

「ありがとうございます。」

 

どれほど時間がかかるかと思ったが、20分少々でミーティングは終わった。毎日、会社に現地の様子をレポートしていたが、だいたいその内容で納得していただけたようだ。

僕は、次のツアーの打ち合わせが、その日に入っていたので、すぐに気持ちを切り替えた。対応の結果は気になってはいたが、ここから先は、僕が関わるべき仕事ではなかった。大きな会社は、そのあたりの分業がはっきりしている。

 

大きなトラブルを乗り越えたという感慨にふけったのは、ほんの一瞬。ドラマのように、それで終わりというわけではない。現実の世界では、目の前に山のように仕事が、ツアーがあった。逆にいえば、一瞬でこのトラブルからは解放されて、次に進んでいけるのが、僕にとっても周辺にとっても最良だった。

 

対応の結果がどうなったかを知るのは、しばらく経ってから。それについては、この後のスピンオフでお話しよう。

 

==おわり==

帰国した。入国を済ませてターンテーブルでスーツケースを待つ間に、僕は担当者の携帯に電話した。

ミラノから出発する前に連絡をいただいており、担当者とその上司が税関出口でお迎えする段取りになっていた。お客様にはそのことを、中東で航空機を乗り換える際にお知らせした。お出迎えに感謝するような言葉をおっしゃる方、無関心な方、「今さら?」という反応な方々様々だったが、これほどの大きなトラブル後、社員が空港でお出迎えするのは、普通である。現地での対応がどの程度うまくいったか、帰国後にどのような対応が必要か、ある程度は、この時のお客様の様子が指針になる。

社員は、二手に分かれて、お客様が見逃さないように旅行会社の看板を持って、別々の出口で出迎える。二手に分かれるのは、全てのお客様が、同じ出口からいらっしゃるとは限らないからだ。

 

全員のお客様が出られたことを確認して、僕も外に出ると、担当者が大きく手を振って出迎えてくれた。

「おつかれまです!」

「おつかれさまです。東京からは、いろいろ的確な指示をありがとうございます。おかげで助かりました。」

「いえいえ。こんな大きなトラブルを、現場でよく対応していただいてありがとうございます。」

「・・・・・・それで・・・どうでした?お客さんの様子は。僕とお別れするときは、とりあえず笑顔だったのですが。」

「思ったよりも、全然よかったです。というか、あのままなら通常の対応で問題なさそうです。帰国後の苦労は大したことなさそうだ。本当にありがとうございます。」

「え?そんなによかったのですか?」

担当者が手に持っていたお客様名簿を覗いてみた。名前にチェックが入っているのは、比較的問題の小さな方々ばかり・・・と、思ったら最後に大騒ぎした6人組は、こちらに出てきたようだ。

「この方たちはどうでしたか?」

最後に起こった出来事を、僕は説明した。

「帰国直前にそんなことがあったのですか・・・。」

「はい。空港に着いたら力が抜けちゃって連絡を忘れました。すみません。」

「それは、ツートンさんの中で、解決したという認識があったからでしょう。まったく問題なかったですよ。『お世話になりました』って、楽しそうにお帰りになりました。」

「そうでうすか・・・。」

「なにか心配ですか?私が反応悪くないって言ってるのに・・・。」

「いえ・・・それはいいのですが、パスポート盗難に遭われた方や、被害が大きかった方の名前にチェックが入ってないから、それが心配で。」

「そうですか。たまたま重い方々が上司のいるほうに行っちゃったのかな。」

その上司が、隣の出口からやってきた。

 

「どうだった?」

僕に「お疲れさまでした」から始まる丁寧な挨拶をしてくださった後、険しい表情で担当者に言葉をかけた。

「こっちは、ほぼ問題ないと言っていいと思います。これまでの対応で満足されてるみたいですよ。」

「俺のほうは、厳しい方ばかり来た。(担当者の名簿を見て)そんな問題なさそうだったのか・・・。同じグループで同じトラブルに遭ったとは思えないな。」

「車上荒らしとしてはひとつのトラブルですけど、盗難事件としては、20件ありますからね・・・。」

「確かに・・・それはそうですね。」

僕が発言すると、上司は「その通り」とばかりに頷いた。

「この方(パスポートを盗られて、会社に補償を求めた方)は、特に厳しかった。『こんな対応には数日もかけないで、すぐにすべきだった。このまま終わらせるつもりはないから』って。このあたりは、どうしてもお客さんと俺たちでは感覚がずれるよな。」

悟ったような口ぶりで上司が話した。

「でも、予想通りでしょう。今日の反応だけで考えれば、それぞれの反応は、ツートンさんが事前に報告してくれたものからずれてませんよ。報告と実際で、ズレもブレもないのだから、私たちも素早く対応できると思います。」

担当者が冷静に上司に言った。この担当者は、切れ者で、いつも判断が正しい。自分の知識の及ばないところでは、知ったフリを一切せず、相手に全てを言わせて、そこから判断する。いい意味で、自分の意見を簡単に翻す。僕が、この取引先で仕事をする時は、もっとも頼りになる担当者のひとりだ。

「その通りだ。だいたいの感触は掴んだから、あとは明日だな。ツートンさん、夕方の到着で申し訳ありませんが、明日の午前の報告でよろしくお願いします。トラブルとしては、かなりヘビーなので、役員クラスも何人か同席します。これまでのツートンさんからの報告は、すべて上に行ってます。現場での対応は、評価されていますからご安心ください。」

「ありがとうございます。」

「あ――・・・でも、ツートンさんの前でこう言うのもなんですけどね、添乗員がベテランでよかったですよ。もし、新人だったら、この一本で潰れてもおかしくない案件です。でも、厳しい態度のお客様は、俺が迎えた数人だけみたいだし。正直、もっと大変な状況だと思いましたが、助かりましたよ。」

上司の方のその言葉に、なにもかも報われた気がした。

「あと、ちょっとびっくりしたんですけど・・・」

「なんですか?」

「いや、もっと疲れ切って帰ってくるかと思ったら・・・けっこう涼しい顔されてますね()

「疲れてますよ()。でもまあ、終わりましたからね。」

「明日の報告もよろしくお願いします。」

「はい。」

「これからも、うちのツアーやってください。これに懲りずに。」

「やりますよ。今回のことだって、御社のツアー内容や手配が問題ではないのですから。」

「ありがとうございます。・・・・さて、明日か!」

 

まだ報告が残っていたが、「帰国」という大仕事を終えて、心底僕は解放された気分でいた。

 

次回、最終回。

たぶん、あの男性客は、グループ全体に気を遣ってくださったんだと思う。結果的に、あのノリは、僕のことを守ってくれたし、「6人の怒れる女性客」の雰囲気も、なんとなく和んだ。

サービスエリアの食事は、セルフサービス様式。サラダやデザート、飲み物は棚から取る。メインは、ラックにあるものをスタッフにオーダーして皿に盛ってもらう。パスタだけは、その場でつくってもらえるから人気はそこに集中した。

お客様たちは、僕の案内にとても忠実だった。食べ物は好き勝手おとりになっていた。4人グループでデザートを6つも取っていたり、飲み物も、ツアー中に一度もアルコールを注文されなかった方がビールやワインを頼んだり、ある酒飲みの男性客はビールを三本も取って「調子に乗り過ぎよ!」と、奥様に怒られて棚に一本戻したりしていた。

たまたま貸し切り状態だったので、レジの人に、「僕が、最後にまとめて全員分を払う」と伝えて最後尾に並んだ。すると、6人組で一番怒っていた女性が、前方からわざわざ僕のところに下がってきた。

「パスタを小さいサイズで欲しいのだけど、言ってくれない?」

「ポモドーロをスモールポーションで。」と、説明して、その通りに出されると僅かに笑いながら「ありがとう」と言って、前方に戻っていった。

 

バスの中の盛り上がりは、そのままレストランでも続いていた。

「まあ、いいか。盛り上がってるし。」

僕は、心の中で自分に言い聞かせていた。担当者からは、特別な予算使用の許可をもらっていて、それを上回ることはないと確信していた。それに、ついさっきまでの殺気立った緊張感を考えたら、この盛り上がりは奇跡の大逆転と言ってよかった。

 

この日に限って、皆様から少し離れたところに座っていた僕は、席を立ってお客様の食べ具合と飲み具合を確かめに行った。すると、例の6人組のテーブルからお呼びがかかった。一番怒っていた方が真っ赤な顔をしていた。彼女の前には、175CCの小さな空けられたボトルワインがあったが、まるで赤ワインを飲んだのではなく、顔にそのまま塗ったかのように赤かった。しかも、もう一本ある。この人、ツアー中は一回もお酒を飲まなかったのに。

「別にタダだから飲んでるわけじゃないのよ。私、本当は強いの。」

確かにそのようだ。顔色のわりに言葉ははっきりしている。

「飲めるんだけど、このとおりすぐ顔に出るから恥ずかしいのよ。でも、タダだって言うから・・・」

「それって、やはりタダだから飲んでるんじゃ・・・」という僕が突っ込みを我慢していると、旅行仲間が突っ込んでテーブルは笑いにつつまれた。

「いや、でも美味しいわ。セルフサービスだけど、パスタは作り立てだし、デザートも美味しい。お酒も好きに飲めて・・・こういうお見舞いは、うれしいわ。言っちゃなんだけどね、2万円よりも全然うれしいわよ。」

「もう許してあげたら?」

再び笑いにつつまれたテーブルで、仲間が突っ込んだ。

「あと少ししたらね。」

 

そういえば、旅行会社勤務時代のことだ。一時的に、大きなクレームがあった時、旅行代金の一部をお返しする方針を会社が取っていたことがある。けっこうな高額商品を扱っていた会社で、時には一人当たり5万円や7万円を返金したこともあったが、なかなかお客さんからいい顔をされなかった。

そんな時だ。当時のお客様相談室の役員が、「これからは甘いもので対応しよう」と、クレームにはお詫びの電話をして、その後、手紙を添えてバームクーヘンを送るようにしたら、お客様の反応が柔らかいものになった。高額な返金よりも、3000円のバームクーヘンを、お客様はお喜びになったのだ。そのことを思い出した。

 

その後、6人グループの別の方が、僕のところにやってきた。

「さっきは、バスの中で感情的になっちゃってごめんなさいね。『ワッ!』て怒ったら、止まらなくなっちゃったのよ。みんな、刀を収める鞘を投げ出したような感じになっちゃって・・・。でも、さっきのバスの最後の説明と、この食事がそれになったわ。ほんと、いいきっかけ。ありがとう。」

「いえ。でも、せっかくのお見舞いの食事が、がこんなところのものですみません。」

「いいのよ。この忙しい日程の中で、あなたがいろいろ考えていたのが伝わってきたから。それが分かっただけでも嬉しいものよ。気持ちよ気持ち。お金は、金額だけでなく、その根拠が明確にお客様に伝わらないと、逆効果になることがあるから難しいわよね。今、みんなで手紙を読み直してみたけどね。冷えた頭で読むと、ちゃんと会社の意図も伝わってくるわ。あれはあれでいただきます。」

 

お客様が自分のテーブルにお戻りになってから、僕はレシートを眺めた。計算すると1人あたり23ユーロの出費。当時のレートで2800円くらいだ。それで、これほど盛り上がっていただけた。サービスは、気持ちとタイミングであることを改めて思い知った出来事だった。グループ全体が、これほど明るい雰囲気になったのは、ツアーが始まった直後以来だ。

 

その後、空港に到着して、チェックインを終えて搭乗ゲート前の椅子で一休みしていた時のことだ。僕の左腕になにかぶつかった。見ると、免税店の袋だった。お持ちになっていたのは、6人組で一番怒ってた女性だ。お酒には本当に強いらしい。飲み終わってそれほど時間がたっているわけではないのに、真っ赤な顔がピンク色くらいにはなっていた。

「どうかされましたか?」

「買ったの。これを。見てよ。」

ブランドものの化粧品がいくつか入っていた。

「いつもご利用されているものを買ったのですか?」

「いえ、いつもよりも少しいいのを買ったの。2万円もらると言うし。」

悪戯っぽく笑った。

「一番のお気に入りはこれよ。」

やはりブランドもののボディーシャンプーだった。

「あ、これいい香りなんですよね。」

「え?使ったことのあるの?」

「いいホテルに泊まった時、これがアメニティーになっていたことがありまして。」

「あらー・・・生意気ね。でも、いい香りなのよね?」

「はい、とても。」

「ならいいわ。・・・ねえ、あの手紙を理解してこの買い物をしたのだけど、どう?少しオーバーしたけど、旅が楽しくなるように2万円をつかってみたの。いい使い方かしら?」

「完璧です。」

満足そうに笑みを浮かべて、すぐそばに座っていた仲間のところに戻っていった。彼女たちの会話が聞こえてくる。

「何話してたの?」

「うん。許してやった。」

なんだかよく分からないが、許してもらえたらしい。或いは、満足することを「許す」という表現があるのだろうか。同じように会話を聞いていた別のお客様にはからかわれた。

「よかったねえ。許してもらえて()。」

「ええ、なんとか()

適当にこたえながら、「とりあえず、できる限りの対応はした!」と自分に言い聞かせた。そして、無事に全員で帰国できること、最後のランチにおいてグループ全体で盛り上がれたことに、強い安堵感を感じて、帰国便の飛行機に乗り込んだのだった。

バスは、再びミラノに向けて走り出した。昨日まで、散々渋滞に苦しんだのが嘘のように、この日の道中はスムーズだった。

「今日は、このまま行けそうだ。」

マッシモがご機嫌に言った。

「よし。これでカードを出せる。」

僕は、マイクを持って案内を始めた。まずは、さっき思い付いた案内からだ。

「先ほどは、お見舞いのお話をいたしましたが、あれは、事件が起こってしまったことへの、皆様の傷ついた心へのものです。それについては、この旅行中にさせていただくということです。特別保険を含めた補償につきましては、帰国後にさせていただきます。そのようにご理解ください。」

「最初にそう言ってよお!」

一番エキサイトしていたお客様が、バス中に聞こえる大声で言った。

「申し訳ありません。今朝方、私も初めて聞いたものですから。そのうえ、東京の人間と打合せする時間もなく、ホテルを出なくてはいけませんでしたので・・・。適切な説明が遅れて申し訳ありません。」

このひとことで、とりあえず雰囲気も落ち着いてきた。

「もうひとつ、お見舞いがあります。今日は、ミラノの空港に到着する前に、もう一度サービスエリアに立ち寄って休憩しますが、その際、会社から皆様にはお昼ごはんを提供させていただきます。」

「ごちそうしてくださるの?」

「はい。これにつきましては、元々東京から、お客様になにか、お見舞いとして大々的にサービスするように言われていたのです。ただ、ニースに着くまでは、渋滞も含めて行程が忙しかったですし、昨日は、昼食も夕食も自由食で、まったくそのタイミングがありませんでした。そのため、これからもう一度休憩するサービスエリアで、自由にお好きなものを食べていただきます。」

「でも、サービスエリアの食事でしょう?」

「そうです。」

「大したことないんでしょ?」

「・・・それが大したことないんですよ。本当に。」

「なによそれ・・・。」

「ですが、セルフサービスで好きなものを選べますから、本当に好きなものを食べられます。パスタでも、サラダでも、ステーキでも。デザートをふたつ取っていただいても構いません。そのうえ・・・」

「そのうえ?」

「飲み物も、好きなものを取っていただいてけっこうです。アルコールも。」

「飲み放題ってことですか!?」

嬉しそうに、男性客が言った。

「好きなだけではなく、好きな飲み物を・・・」

「一杯だけ?」

この男性客の言葉に、車内全体が反応した。窓の外を見ていたお客さんたちも、僕のほうに視線を移した。俄かに気圧された。僕の頭の中では、担当者から言われた予算とサービスエリアの食事と飲み物の値段を照らし合わせて、電卓がはじかれていた。

「まあ、一杯でなくてもいいかな。・・・その、節度を持って・・・例えば、夫婦でグラスのワインを一杯ずつとミネラルウォーターくらい。それか、コーヒー、紅茶をプラスするくらいなら・・・。」

「いぇーい!飲み放題!」

「のみほーだーい!!」

「おー!飲み放題――!」

大きな拍手と歓声。先ほどとは、別の意味でバスの中が爆発した。


「お見舞いは、保険による補償と違って実務的なものではなく、あくまで気持ちです。どうかそのままお受け取りください。」

選ぶべき言葉を見つけられず、同じような表現を僕は繰り返した。

「だから、受け取るけど、その金額じゃ少ないんじゃないかって言ってるの。他のみなさんだって、そう思ってますよ!きっと!」

「いや、そんなことないですよ。私は妥当だと思っています。」

1人の男性客が声をあげた。この方は、トラブルが起きた直後も、「旅行会社がなにかしら補償すべき」というあるお客さんの主張に対して、「私はそこまで求めていません。」と助け船を出してくれた。(エピソード④「対策」より)

「特別保険を使って、個別な対応をしてくれるというのだから、お見舞いの金額は問題ではありません。それに、2万円は旅行代金の一割以上だから、十分な誠意がこもっていると思います。」

仰ってることは正しかった。だが、この「旅行代金の一割以上」という表現は、僕が言おうにも言えずにいたものだった。相手が理屈ではなく、感情で話している時は、正しいかどうかではなく、タブーな表現というものがある。案の定、

「旅行代金の一割・・・?安い旅行だからお見舞いが安いっていうの!?」

と、怒り出し、バスの席から立ちあがった。お見舞いには、確かにそういう面がある。だが、この場では言ってはいけない表現だった。逆に僕の立場は、悪くなった。

「確かに、旅行代金の一割以上ではありますが、会社も別にそこを基準にしたわけではないと思いますよ。どうかここは、おさめてください。」

女性は、僕を睨むように一瞥した後、他のお客様を見まわして激昂しているのが自分1人だと分かると、そこはおとなしく席にお座りになった。だが、怒りを表面に出したのが彼女だけというだけであって、その発言に不満を抱いた方は他にもいらしたのだろう。車内の雰囲気は微妙なものになった。一方で「旅行代金の一割以上」という表現は、ある意味的を得ていたせいか、それ以上、お見舞いについて、なにか言われることはなくなった。

 

ミラノまでは、まだまだ遠かった。休憩が二度必要な中で、最初のサービスエリアに入った。

バスを降りて、お手洗いの場所を案内して、その後コーヒーを飲んで寛いでいると、昨晩、最後の夕食をご一緒した女性四人組と、あるご夫婦がニコニコしながら近づいてきた。

「いやー、あのおじさん、余計なことを言ってくれたね。」

僕は、問題発言をしたお客さんが近くにいらっしゃらないことを確かめて言った。

「はい・・・。もう本当に。昨日まではほんと助けてくださったのですが、今日のあの発言だけは・・・」

僕が本音を漏らしたのが面白かったのか、6人は笑った。

「私たちは、2万円には納得してるわよ。いいお小遣いよ。ねえ。」

「そうだね。俺も、被害額は大きいけど、特別保険に自分の旅行保険だろ?そのほかにお見舞いってのは悪くないよ。」

「でさ。実際はどうなの?」

前日、約款議論をしたお客様が、好奇心いっぱいの目で僕を見つめた。

「なんの実際ですか?」

「旅行代金で、やっぱりこういう時のお見舞いの金額ってかわるものなの?」

「・・・・・そこですか?」

「そこよ!そこ!この6人で、バスの中で話してたのよ。あのおじさんの問題発言の時、ツートンさんは困った顔をしていたけど、一切否定はしなかった。『あれ?』って思ったのよ。真意を聞きたい。」

「うん。聞きたい。」

「興味本位だけど、質問は真剣よ。回答内容によっては、今度こそ弁護士行きかも。」

「勘弁してくださいよ。」

「ささ、こたえて。」

僕は、もう一度そこにいるメンバーを見渡して、「この方たちなら」と思い、説明した。

「念のため申し上げますが、金額の根拠は、僕は知らされておりません。でも、確かに旅行代金に対して、このお見舞い金は破格だとは思いました。それで、ここからは僕の見解であって、会社の方針ではありません。よろしいですか?」

「いいですよ。さあどうぞ!」

「例えば、みなさんのお孫さんが全治一か月の骨折で入院しました。片や親戚の偉い人が全治二週間の軽いけがで入院しました。どちらにもお見舞いに行くという前提で考えてください。かわいいのはお孫さんでも、実際にお持ちになるお見舞いのお品については、どうでしょうか?」

みなさん、一瞬僕から目をそらした後、「なるほど」という表情でこちらを見た。

「いじめてやろうと思ったのに、思ったよりも、まともな答えが返ってきたわね。・・・かわいくない。」

「ありがとうございます。でも、お見舞いのニュアンスってそんなものです。個人同士でも会社対個人でも、さほど変わりません。」

「そう説明すればいいのに。」

「できません。」

「そうよね。理屈でなく『お孫さん』のところに反応して、『孫扱いか!』ってますます大変なことになるわね。」

「でも、全員が同じ金額に納得にいかないという、彼女たちの気持ちも理解できるわよ。私なんて、2万円もいただいたら、それ以上の補償いらないわ。儲かっちゃう。こんなのと一緒にされたら・・・私が逆の立場なら、もっと怒るかもしれない。」

「いや・・・だから。」

僕は、めげずに話し続けた。

「お見舞いはお見舞いです。そこに各自の被害の大きさは含まれないのです。お客様だって『2万円もいただいたら儲かっちゃう』と言ってますけど、事件が起きた直後は、他の方々と同じように、かなりショックな表情を浮かべてましたよ。」

「そりゃあそうよ。」

「それに対するお見舞いです。被害の大きさではなく、それ以前の事件が起きた時のショックへの。まずはお見舞い。補償はその後でしょう。」

その場にいらした唯一の男性客が深く頷いて、それから言った。

「今の説明はよかったよ。とてもしっくりきた。どうして最初にそう言わなかったの。」

「・・・・・今思い付きました。みなさんとお話していて。」

 

朝、怒りに燃えていた女性6人が、僕らの前を通り過ぎた。出発時間が近づいてバスに戻る時、一番怒っていた方が、近づいてきた。僕を睨みながら

「ずいぶんと楽しそうにあの方たちと話してたわね。なにか説明してあげてたの?それとも、まさか私たちの悪口?」

「・・・・っ・・・・!」

一瞬、頭に血が上って声を荒げそうになってしまったが、なんとかグッとこらえた。「落ち着け」と自分に言い聞かせて、なんとか落ち着いた。

そう。ここまで来たのだから、自分で事をぶち壊してはいけなかった。最後に残されたカードを切るのはこれから。そして帰国だ。

ニースから、すぐにイタリアとの国境を越えた。螺旋状の道路を走り、丘に上がっていく。

すっかり地中海を見下ろすほど高いところまで上ったと思ったら、視野から消えた。ここからは、内陸をドライブして、ミラノまで向かう。この日の朝は、黄色いジャケット軍団に悩まされることもなかった。

旅の最後に、最高に美しい朝の地中海を見られて、バスの中は、余韻に浸る空気で溢れていた。すぐに手紙の内容を説明するのは憚かられた。しばらくの間は、静かで感動に包まれた空気を、そのままにしておきたかった。

朝早い出発のせいもあったのだろう。地中海が見えなくなると、ほとんどのお客様が目を閉じた。車内のあちこちで会話が始まり、いつものバスの雰囲気に戻ったのは、出発して1時間半ほどたってからだろうか。僕は、ようやく説明を始めた。

 

まずは、きちんとした挨拶から始めて、そこから本題に移った。

特別保険について。グループ全体が特別な被害を受けた時などに、特別に適用されるものであること。それこそ滅多に適用されるものでないこと。これを利用するということは、会社としては最大限の誠意と対応であるということ。

「今回の場合、旅行会社も被害者ですから、賠償ではなく、その特別保険を用いての補償ということになります。これは、みなさんが加入している海外旅行保険とは関係ないものですから、それはそれで申請していただくことができます。」

「二重申請にはならないのですか?」

お客様から質問が来た。

「なりません。特別保険のほうは、あくまでお客様のために旅行会社が申請するものです。皆様個人が申請する海外旅行保険とは別ものです。」

「それだと参加者が得をするというか・・・儲かっちゃうこともあるってことですか?」

「理屈で言えばあり得るのかもしれませんが、実際にはまずないでしょう。例えば、ブランドもののコートや財布が、購入した時と同じ金額で補償さることはまずありません。この場合の特別保険は、実損額と通常保険の被害評価額の差額を少しでも埋めるものとして、適用されるとお考えください。」

ここまでは、みなさん静かにお話を聞いてくださっている。

「これにつきましては、帰国後に、会社から皆様に、個別に連絡をさせていただきます。保険に申請するための書類記入もしていただくことになるでしょう。当然、被害によって金額が異なりますから、具体的なことは申し上げられません。実際に連絡、その後の審査を考えると、補償がおりるまでは時間がかかります。そこはご了承ください。」

時間がかかるというところで、大半の方が、軽くため息をついた。

「念のため説明しますと、特別保険と皆様独自の保険の手続きは同時に進められます。審査後、両方足した金額に納得いかなければ、さらに別の保険で申請することができます。具体的な例えでいうと、特別保険+独自の海外旅行保険で足りなかった金額を、クレジットカードの海外保険で申請することが可能です。もちろん、その際は最初の保険でおりた金額をきちんと報告することになります。審査がありますから、そこはきっちりとなさってください。」

「そんなことができるのですか?」

「申請はいくらでもできるのです。ただし、保険が実際にどこまで確実におりるかは、わかりません。申請のやり方に迷いがありましたら、それこそ旅行会社にお問い合わせください。」

満足かどうかはともかく、説明内容には納得はしてくださったようだ。そして、いよいよ2万円の話に移ろうとした時、先にそのことを質問された。

「さっき、先に2万円をいただけるとのことでしたが、特別保険の審査結果から、それは引かれるのですよね。」

「いや、それは違います。あれは、お見舞い金です。補償とは一切関係ありません。」

「さっきも言いましたけど、私、もう少し早く仰っていただいていたら、この2万円でもっといい化粧品買えたのです。保険で確実におりるように、いつもなら使わない安いの買ってしまいました。」

「ですから、お求めいただいた安いのは、保険で申請されてください。この2万円で、いつものものをご購入いただければいいと思います。これから行くミラノの空港でも、帰国してからでも、どちらでもけっこうですよ。」

「被害額が、人によって全然違うのに、一律2万円の補償っておかしくありませんか?」

別の女性客が言った。一部のお客様も頷いている。僕は、「ん?」と違和感を覚えながらすぐにこたえた。

「いや、ですから、これは補償ではなくてお見舞いだから・・・。」

「どちらでも同じです!一律2万円はおかしいです。私なんて、そんなもんじゃ、全然足りません。」

賠償を含む補償と見舞いは、全く違うものだ。そこは、誤解がないように、旅行会社側も文面上で、明確に言葉を使い分ける。だが、ケースによって、時には、その違いが伝わりにくいこともある。今回は、まさにそのケースだった。いろいろ意見はあるかもしれないが、この場合、見舞金は一律であっても、おかしくはない。

 

一部の方々の頭の中では、完全に「補償」と「見舞い」が混ざり合っていた。

難しいものだ。お客様が一番反応したのは、旅行会社がお伝えしたい「特別保険」についてではなく、「一律2万円のお見舞い金」だったのだから。

複数のお客様から攻撃されて、少しまいっていた僕に対して、バスで待機していたマッシモが降りてきて声をかけた。

「ツートン!時間だぞ!」

違う角度から声をかけてもらうだけで、スーッと視野が広がることがある。見渡してみると、興奮しているのは、この6人だけだった。警察書類を作成した時、僕とガイドさんに駆け寄ってきた人たちは、遠くで悲しそうにこちらを見守っていた。昨日、夕食を一緒に食べたマダムたちも、パスポート盗難に遭った方々も、この場では、決して僕を責めてはいないと感じた。

「続きは、バスの中でご案内します。まずはバスに!今日は長いドライブですから、早く出発しましょう。」

僕が、グループ全体を見渡して声をかけると、多くの方々は、頷いてバスに向かった。何人かは、少しほっとした顔をしていた。ある母娘は、「大変ですねー・・・。頑張って!」と、僕のそばに来て、囁きながら応援してくれた。

お世話になったホテルのスタッフに挨拶に行くとき、昨日、ディナー時に僕と散々お話した質問主のマダムが、6人に歩み寄って、なにか話している。

マッシモが、お客様のスーツケースをバスに積み込んでいた時、マダム質問主がやってきた。

「大丈夫よ。彼女たちは、ちょっと感情的になってるだけだから。私みたいに細かい疑問を抱いてるわけじゃない。少しドライブして、朝の景色を見れば気分も変わるわよ。彼は、ちゃんと説明してくれるって言っておいたから。頑張ってね!」

昨日のやりとりで、マダムには気に入っていただけたようだ。ありがたい。こんな時、少しでも応援してくださるお客様がいらっしゃるというのは、本当にありがたい。

 

全員がバスに乗り、出発だ。僕のすぐ後ろには、パスポートを盗られたご夫婦のうち、僕に対してキツい態度を見せるほうがお座りになった。席の後ろから、ボソッと声をかけてきた。

「あの手紙、悪くないよ。少なくとも、私は気に入っている。」

「え?」

これまで交わした言葉の中で、一番会社に対して肯定的な言葉が出たので驚いた。

「ただね、遅いよ。タイミングが悪いと、たとえいいことでもケチをつけられる材料になったりするもんだ。だから週末だろうが、君が日本の社員に大騒ぎして・・・まあ、それはいいか。ところで、さっき怒ってた人たちの他にも心配してた人がいたよ。『たった二万円で補償が終わったらどうしよう』って。どこにも補償だなんて書いてないのにね()

「どなたですか?」

「あとで教えてあげる。でも、私が文を一緒に読んで内容は説明しておいた。特別保険での対応とは別に、お見舞いの2万円だって。お小遣いですよって。」

「ありがとうございます。」

「帰国後は、会社にいろいろ言ってやろうとは思ってるけど・・・とりあえず雰囲気は、少しでも崩さないで帰りたいよ。楽しいところは、楽しかったからね。いい説明を頼むよ、ほんとに。」

 

このツアーは、ある中東の航空会社を利用していた。往路は中東経由でバルセロナに入った。南仏には航行していない。だからと言ってパリは遠い。そこで、復路はニースから国境を越えてミラノまで走り、そこから帰国便に乗ることになっていた。丸々半日かかる行程だ。

ふだんなら、面倒で長いドライブだが、この時はありがたかった。ニースからイタリアはすぐだ。フランスの外に出ればデモの心配はなかった。それに、一度お客様を落ち着かせてから、手紙の内容をゆっくり説明する時間ができた。

バスは、一度海岸線に出た。朝日に地中海が赤く染まっていた。僕は、バスに揺られながら、お客様たちと鮮やかな色の海をしばらく眺めていた。
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朝のニースで眺めた地中海。写真は当時のものではありません。

帰国日の朝になった。早朝に会社から参加客宛の手紙が届くことになっていた。朝5時に起きて、フロントにお願いして、ホテルのメールアドレスに送られたものをプリントアウトしてもらった。日本に電話して、担当者と、どのように案内するかを打ち合わせするために、素早く目を通す。

 

会社としては、特別保険で対応するとあった。滅多に聞かないこの言葉。簡潔に言うと、「大きなトラブルがあった時、会社がお客様に対応するための保険」だ。大半の添乗員が、おそらく一度も耳にしたことがない、或いはあったとしても、おそらく実際に利用する現場を経験せずに引退していく。それほど利用頻度は低い。よほどのことがないと適用されない特別保険の利用を宣言することは、会社が、このトラブルを非常に大きなことであると受け止め、全力で対応するということを意味していた。

なお、参加客が海外旅行保険に加入している場合、この特別保険とは、関係なく申請できる。会社としては、できる限り、お客様の被害と実損を最小に抑えたいという狙いがあった。

文章を読み進めていくうえで、驚きの対応があった。要約すると「今回のトラブルにおいては、保険審査に時間がかかると思われる。先に、会社としてのお見舞いとして2万円をお渡しるする」というものだ。

このツアーは8日間だったが、抜群の仕入れ技術を用いて、20万円以下の超格安商品に仕上げていた。つまり、一人当たり二万円のお見舞いは、旅行代金の一割以上をお返しするということでもあった。

ケチケチせずに思い切った対応をする旅行会社だという認識はあったが、さすがにこれは驚いた。

 

ただし、これは内情を分かっている案内する側の感覚だ。これをお客様がどう受け止めるかは別だった。例えば、被害の大きさが千差万別な状況で、一律二万円のお見舞い金に全員が納得するかどうか。特別保険の適用前に、さらなる対応を求めるお客様がいるのではないか。「20件の盗難事件」すべての被害者が、この内容に納得するかと言われたら、決してそういうものでもなかったと思う。担当者とは、そのあたりの懸念も含めて、慎重に電話ミーティングをした。

 

出発間近になり、お客様が次々とロビーに下りてくる。「詳しい内容は後ほど説明いたします。」と言いながら、手紙をひとりひとりにお渡ししていく。たまたま最初は、被害が小さいお客様や、トラブル対応に理解を示していたお客様がいらした。そのため、みなさん納得されている様子だった。中には、

「確かに了承しました。早い対応ありがとうございます。」

と、お礼まで仰ってくださる方もいらした。このまま静かに出発できればよかったのだが、やはりそうはいかない。

手紙を読みながら、6人の女性たちがグループになって、こそこそお話されている。盗難後のお買い物で、あれこれ質問されてきた方たちだ。一部の方の言葉を借りれば「時々ツートンさんに失礼な態度をとっていた」方々だった(僕自身は、それほど感じていなかった)。彼女たちは、それぞれ二人ずつの友人同士であったのだが、トラブル以降、6人で行動していることが多かった。話しながら、一人が僕のほうを指差した。嫌な予感がする。そして、どうやらこの旅行中にリーダー格になったらしき方が、僕に近づいてきた。

「これって、『特別保険』とやらで済ますって書いてあるけど、会社は、なんの賠償もしてくれないのですか?」

「賠償?」

「そちらが手配したバスでこういうことになったのだから、なにかしらあってもいいんじゃないですか?」

「ですから、そのお手紙にあるとおり・・・」

「保険は保険よ!会社が痛い目にあうわけじゃないありませんか。私は、補償でなくて賠償が正しいと思います。」

そんなことはない。保険だって、会社で掛け金を払っている。ただで下りる保険などあるわけがない。しかも、よほどのことがない限り、適用にならない保険を使おうとしているのだ。

「それとね、この二万円てなに?」

今度は、その方の友人が口を開いた。

「被害がバラバラなのに、一律二万円てなんなの?補償内容がおかしいわよ。」

「いや、それは補償でなくてお見舞いです。補償は一律ではありません。ですが、お見舞いは・・・」

「それだって、一律二万円はおかしいわよ!私なんて、20万円以上の実損があるのよ!」

冬の朝、外はまだ薄暗い。ロビーが忙しくなる前、静かな時間帯で「20万円!」というお客様の声が響き渡った。少し恥ずかしくなったのか、その方は顔を赤らめて後ろに下がった。

 

二万円に根拠はあった。被害の大小はともかく、盗難で化粧品などの共通した被害があることは確実だったから、最低限の購入費という意味合いがあった。たとえ、それが帰国後に日本のデパートでもかまわないからというニュアンスも含まれていた。

或いは、最後の空港でも、帰国後でも気分転換のお小遣いにしていただいてもよかった。手紙にもそのように書かれていたのだが、彼女たちは「2万円」という金額に、怒りの感情だけが爆発してしまった。なんとかうまく説明しようとしていると、もう一人が話の輪に加わってきた。

「私ね、いつもは買わない化粧品を買ったの。保険でおさまることだけを考えてね。そうしたら、肌が荒れちゃったの。見てよ。」

確かに荒れていた。

「もしね、この二万円が最初からあると分かっていたら、もっといいものを買えたのに・・・。なんで今なの?」

6人の主張は、繋がっているようで、まったく繋がっていなかった。共有していたのは、怒りの感情だけだ。複数のバラバラの主張は、感情むき出しで、彼女たちの興奮を収める対応は、僕一人では不可能だった。みんなが口々になにかを言い、だんだんと僕を追い詰めていく。

これまでの、約款を基にした質問を始めたとした、理論的なものはなにもない。こうなったら、旅行業法などの知識も、お客様の会話の中では、まったく役に立たない。

「こんな対応なら、もうこの会社使わない!」

そして、とうとうその言葉が出てしまった。同意する仲間たち。ツアーの雰囲気はこうして壊れていく。これまで、丁寧に個別に対応して、お客様の爆発しそうな興奮をおさえてきたが、最後の最後で崩壊の危機を迎えていた。感情の伝染によるクラスターだった。

「ツートンさんも、警察書類出しただけよ。それ以外、大したことは何もしてないわよ。」

 

帰国日の朝、何本もの矛が僕の胸に突き出された。僕は、自分の腕を傷つけながら、なんとかかわしていたが、最後のこの一言は、かわせずに胸に突き刺さった。その勢いで、ついに心にヒビが入るのを感じた。強がりを言えば、折れたり割れたりはしなかった。ヒビだけだ。

「この日が帰国日。なんとしても無事に帰る。ここまで来て、崩壊させてなるものか!」

そんな気持ちだけが、僕のモチベーションをかろうじて保っていた。

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