登場人物
N美
やっと、ツートンと出会えた究極のへっぽこ添乗員。これより下のレベルはないというところから、いよいよ研修が始まった。研修というよりも訓練。いや、特訓。
マスター・ツートン
この時点は、N美と出会わなかったほうがよかったと思っているマスター(教官)。それを一番強く思ったのが、この日だった。
マネージャー
派遣元の敏腕営業マン。この時点でN美のことはまったく買っていない。
営業くん
セクシーな声で、まったく添乗していないN美を忘年会に呼び出したが、彼女のおかげで取引先からは、けっこう嫌味を言われていた。だからこの時点では、これ以上N美には添乗してほしくない。
社長
派遣元の創業者。N美の指導をツートンに頼んでおきながら、1週間も経たないうちに忘れていた不届き者。
S子さん
派遣元の教育係。少し前までは添乗員だった。それも凄腕の。
初めての研修は、クリスマス前に行われた。
年末年始ツアーの準備に入る前だった。N美は、ある旅行会社でアルバイトをしていたので、開始は夜の7時前後になった。
当時のオフィスは、内勤の誰かが、必ず夜の8時くらいまでは残っていた。派遣元にはレクチャー制度というものがあり、訪問経験のないツアーが割り当てられた時、経験者から教えを受けられることになっていた。そのスケジュール合わせが中々大変で、オフィスが開いている時間をそこまで伸ばさないと、調整が不可能だった。
N美が来る前に、マネージャーに彼女のこれまでのデータを見せてもらった。前にも書いたが、散々な結果だ。自分になりに分析していると、なんだか妙なマネージャーの視線を感じた。
「なに?」
「いや・・・あのさ、本当にやるの?N美を教えるの?」
「そのつもりだけど。だめなの?」
「いや、別に。・・・・本当にやるんだってさ(笑)」
話しを振られた営業くんは、目だけこちらに向けて、
「よろしくお願いします!」
と、半分からかうような感じで言ってきた。なんなのだこの空気は?
そのうち外出先から社長が帰ってきた。
「おお!ツートン。どうしたんだ今日は。年末ツアーの打ち合わせ帰り?」
「いや、この前言われたとおり、N美にいろいろ教えようかと。今日は初日です。」
「・・・・・(なにか思い出してる仕草)・・・ああ!あれかあ。本当にやるのか?」
みんな揃ってなんなのだ?社長なんて、僕に「やれ」と言った張本人ではないか。だんだんイライラしてきた。
やがてN美が現れた。朝からフルタイムでアルバイトをして馳せ参じたせいか、少し顔が紅潮していた。或いは緊張していたのかもしれない。簡単に挨拶した後、いよいよ研修開始だ。
「とりあえず悲惨な結果は見た。添乗で一番苦労してるところってなに?」
「うーん・・・。」
「なにか、これを教えて欲しいとか、希望はある?」
「うーん・・・ないです。」
「!!・・・ないの?」
「・・・ないっていうか、わかりません。」
ひょっとして、こいつは何もわかってないのか?と思いながら、彼女に最初の課題を出した。
「座ったままでいいからさ。再集合の案内をやってみて。設定はこれね。トルコ航空のこの便で何時出発ということで。」
最近は流行らないが、かつて、2005年くらいまでは、空港の受付時に再集合というサービスがあった。当時は、大半のお客さんが旅慣れていなかったため、チェックイン後にもう一度ご集合していただき、出国や手荷物検査の案内、搭乗口のお知らせ、現地までの所要時間、時差、現地通貨の両替など、すべてそこでご案内していた。
今は、お客さんが旅慣れているし、再集合を設定しても来ない方が多くなったため、それに該当するものを書面で渡して、各自で搭乗口に向かっていただくことが大半だが、添乗員研修の時は、今でも再集合の案内を言えるように訓練することがある。出発日の空港での動きを覚えるのにちょうどいいのと、多人数のお客さんの前で、声を張って案内をするトレーニングに適しているからだ。
「・・・・・・。」
「どうしたの?始めていいよ。」
「これから乗る飛行機ですが・・・」
「ちょっと待って!最初の研修で教わった通りにやって。自己紹介からでしょ?」
「あ、はい・・・。N美です。今日これから乗る飛行機は・・・」
「ちょっと待って!」
内勤者がいるテーブルに視線を送った。マネージャーは、ほんの少しあきれた笑みを浮かべていた。営業くんは、自分の仕事に集中して聞こえていない(フリをしていたと思う)。僕に背中を向けて固まっていたのがS子さんだ。彼女は、かなり実力を持った添乗員だったが、この1年ほど前から内勤になり、添乗員の教育係をしていた。N美の研修も彼女が面倒を見ていた。
「添乗員がいる意味がなかった。」N美が最後に出た添乗で、あるお客さんがアンケートに記入したコメントが頭をよぎった。
「再集合の案内忘れちゃった?手本を見せてあげる。」
「みなさん、おはようございます。この旅はT社のトルコツアー8日間にご参加いただきまして、誠にありがとうございます。私、本日から帰国までご案内いたします、添乗員のツートンです。どうぞよろしくお願い致します。
さて、本日の流れにつきましてご案内申し上げます。皆さんがこれから利用される航空機は、トルコ航空のTK○○便です。・・・・・・・・・」
一通り終えると、「おお!」とN美は感心して拍手までしてきた。
「いや。君がやるんだよ。」
僕は、N美に案内すべきことを箇条書きさせた。そして、再度同じことをやらせた。
「みなさん、おはようございます。この度は、T社トルコ旅行に参加・・・していただ・・・いただいてありがとうございます。私、添乗員のN美でございます。みなさんが利用する航空機はこちらでございます。TK○○便でございます。」
「ちょっと待って!」
無茶苦茶だった。
「むやみに『ございます』を連発しなくていいよ。変だ。悪いけど日本語になってない。もう一度・・・いや、いいや。」
僕は、細かく一言一句を指示しながら、1時間ほどかけて再集合の案内を書き取らせた。そして、今度はそれを声に出して読ませた。不思議なもので、N美が自分で書いた文字であって文章なのに、何度も何度もつっかえた。きちんとした敬語を話せないことは分かった。読めないことも分かった。この辺りは、自分でなんとかしてもらうしかない。
「あとは年明けにしよう。僕が帰国して、えーと・・・6日ね。6日に来て。時間は今日と同じ。今書いたものを、ちゃんと練習してきて。何度も何度も。諳んじるくらいに。」
「諳んじるってなんですか?」
「覚えること。暗記するくらいにね。」
「え・・・?」という感じで、自分で書いた文章を見入るN美。
「そこを覚えてこないと、先はないから。」
こうして最初の研修を終えた。帰り道、マネージャーと社長の「本当にやるのか?」という言葉が何度も頭の中でこだました。いや、二人だけじゃない。もう一人の声も聞こえる。僕自身の声だ。
「本当にやるのか?できるのか?」
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トルコのカッパドキアより。外見はロマンチックな洞窟ホテル。中も素敵ですけどね、まあいろいろあります。